第30話 感情連鎖
「あたしの拙いピアノを褒めてくれたの!」
詩音が防音室にやって来るなり開口一番でそう言った。
スコアに目を通していた菫哉は、至極冷静にへえ、と答えた。
「誰が?」
どうせ詩音の女友達の誰かだろうとタカを括って尋ねると、意外な事に出てきたのはかの有名な友英会役員の名前だった。
「今日掃除の時間に、弾いたのよ、ほら、えーっとこの間のドラマの挿入曲!菫哉が弾いてくれたやつ!」
数年前の最高視聴率を誇る連ドラの人気挿入曲。
詩音がいつもドラマを見ては胸をときめかせているので、いつしか菫哉も見るようになったそれ。
ピアニストの恋愛ストーリーがOL層を中心に人気になって、毎回話題を攫っていた。
毎週のように詩音に付き合わされるうちに覚えてしまっていたのだ。
彼がピアノを弾くシーンで演奏されるその印象的な曲は大ヒットした主題歌と並んでドラマのメインテーマのような扱いだった
それはともかく、あの曲をお世辞にもうまいとは言えないバイエルで行き詰った詩音が弾けるのか?
胡乱な視線を向けて菫哉が尋ねる。
「あのメロディを詩音が弾けたの?」
引っ掛かる物言いに詩音が眉を跳ね上げる。
「そりゃ、菫哉みたいには弾けないけど!?でも何とか主旋律は追っかけれたんだから!藤くんだって、あたしの曲聞いて、あの歌だってわかったんだからね!」
友英会は後任指名制で役員が決まる。
今年入学と同時に執行部に名を連ねている1年生の藤は、間違いなく彼らの代の会長候補だった。
生徒を束ねる抜群のリーダーシップと、男女問わず人好きのする柔和で軽快な物腰が男女問わず人気らしい。
廊下を歩けば瞬く間に生徒に囲まれる有名人だ。
どちらかと言えば菫哉とは真逆のタイプである。
菫哉の学年は、男子バスケ部の和田と大久保が揃って学年のワンツートップで、次点を現在友英会の会計を務めている東雲が追いかけている状況だった。
藤は後輩だから、詩音に気を遣ったんだよと心の中で付け加えておく。
そりゃあ、あれだけ話題の曲なんだから、よっぽどぶっ飛んだ間違いをしない限り誰でも分かるに決まってる。
「あたしらしい弾き方ですねって。見てて楽しくなるって言ってくれたの!」
とんだリップサービスもあったもんだ。
呆れ顔で菫哉が良かったね、と返す。
その態度がさらに詩音の苛立ちを募らせる。
「またそうやって馬鹿にしてっ」
「別に馬鹿にしてないよ」
噛みついてきた詩音を見つめ返して、菫哉が静かに笑う。
ただ、面白く無いだけだ。
連弾に付き合って、綺麗にメロディが重なった瞬間の満面の笑みを隣で見続けたのはほかならぬ菫哉だったから。
詩音が鍵盤に向かう姿勢を誰より、側で見つめていたのに。
「なら、これから詩音が弾きたい曲は、自分で練習して、藤に聴かせれば?」
自分でも馬鹿みたいなヤキモチ。
思わず言葉にした後で後悔したが、もう遅い。
菫哉のセリフを聞いた詩音は、一瞬にして泣き顔になった。
一番、この顔をさせたくなかったのに。
自己嫌悪に襲われながら、菫哉が次の言葉を探す。
「な、何言ってんのよ・・・なんでそうなんの!?」
詩音は悔しそうに顔を歪ませて菫哉を詰る。
ここで、もっと自分が大人なら、ゴメン、冗談だよ、と返せるのに。
いつもうまく立ち回れない自分に苛立ちを感じながらも、こうして、自分の一言で泣き出す詩音を前にすると、少し嬉しくもある。
強気な詩音が堪え切れずに涙を零すのは、いつも菫哉絡みだから。
自分の底辺に渦巻く征服欲が満たされていく。
好きな子を泣かせるなんて最低だな。
どこか冷静な自分の声を聞きながら、同時に、この顔を見られるのが自分だけだと思うと満足もする。
馬鹿みたいだ。
けれど、仕方ない。
だって、泣き顔も欲しいと思ってしまうから。
それもこれも、全部目の前の女の子のせいだ。
菫哉がいつもの自分を保てなくなるのも。
訳もなく苛立ってしまうのも。
菫哉のピアノが大好きな、詩音のせいだ。
答えがひとつ頭の中に浮かんだら、早かった。
菫哉は立ち竦む詩音の肩を抱き寄せた。
腕の中に収めてしまうと、やっぱりただの小さい女の子だと思う。
いつもの強気は影を潜めている。
「なによっ」
こんな時でも憎まれ口をきくのがいかにも詩音らしい。
しくしく泣けば可愛げもあるのに、これ以上泣かされるもんか、と意地を張るのが彼女だ。
「しーのせいだよ」
「・・・なにがよっ」
「僕が意地悪したくなるのも、イライラするのも、こうやって閉じ込めたくなるのも」
泣いたせいで赤くなった耳たぶを甘噛みして、菫哉が囁く。
びくりと震えた詩音の身体を押し止めるように、菫哉の腕が抱え込んだ。
逃がさないと言外に告げられて、詩音が小さく息を呑む。
唇で頬をなぞって、菫哉濡れた目元にキスをした。
潤んだままの瞳で、詩音が菫哉を見つめ返す。
「好きってなんでこんな煩わしいんだろ」
「知らないわよっ」
吐き捨てるように詩音が言った。
菫哉の胸を叩いて離してと訴えるが、菫哉は当然腕を解かない。
そもそも、自分と真逆の藤会長に褒められて喜ばれた事が発端だ。
どうやっても俺は、そっち側にはいけないのに。
ああやっていつも笑顔を振りまいて、取り巻きを引き連れてるタイプは苦手だし。
なりたいとも思わない。
なのに、あんなに嬉しそうな顔するから。
お世辞で言ったに決まってるのに。
「しー」
懐かしい呼び方をされて、詩音が一瞬動きを止める。
伺うように菫哉のほうを見上げる瞳は赤くなっていた。
泣くことなんて無いのに。
むしろ、そこは俺の気持ちを独占出来て喜ぶところだろ?
馬鹿みたいに他の男に嫉妬して、苛立って。
まるで子供みたいだって。
でも・・・
目尻に残る涙を指先で拭って、菫哉がもう一度唇を寄せる。
「っ・・・」
ぎゅっと目を閉じた詩音の頬にもキスを落とした。
「怒っていいよ」
菫哉が静かに囁く。
「・・・え・・・?・・・っ・・・ん・・・っ・・・」
何の事かと詩音が目を開くと同時に、顎を掴んで引き寄せた。
強引に唇を割って深くする。
性急なキスと、忍び込んできた舌の感触に詩音が慌てて腕を突っぱねた。
その手を掴んで、菫哉が指を絡める。
だから、怒っていいよ、だ。
何度も角度を変えて唇を重ねた後で、菫哉はゆっくり詩音の唇を解放した。
「・・っっは・・・っ・・・」
突然の展開にパニック&酸欠状態の詩音が必死に菫哉を睨み付ける。
その視線を甘んじて受けながら、菫哉は詩音の背中を優しく撫でた。
悪かったとは思うけど、半分は詩音のせいだし。
こっそり開き直る。
「いいよ、慌てなくて、ゆっくりで。ちゃんと落ち着いてから怒られるから」
「・・・な、なによその態度はっ!」
「ごめん。嫌だった・・・?」
菫哉が満面の笑みで問い返した。
突然の質問に詩音は返す言葉を失くして狼狽えるしかない。
「あっ・・・だっ・・・なっ・・・」
ぱくぱく魚のように口を開ける彼女の額に、宥めるようなキスをする。
菫哉はピアノに触れる時のように丁寧に詩音の髪を撫でた。
「嫌じゃなかったなら、いいよね」
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