第10話  うたえればいいのに

滑らかに動く指を視線で追う。


鍵盤に触れるその手に、彼の手に・・・触れたいと思ったのははじめてかもしれない。


あたしは、彼のピアノに恋をしたんじゃない。


ピアノを弾く手を持つ、彼に・・・ずっと前から、恋をしてたの。


「・・・と・・・菫哉・・・?」


最後の一音の余韻が甘く響く音楽室のピアノの前で。


あたしは、必死に自分を奮い立たせる。


「・・・しー」


ずっと昔に、彼が呼んだあたしの呼び名。


今じゃ、まどちゃんが真似して”しーちゃん”って呼んでいる。


「・・・あの・・」


振り向いた彼の手が伸びて、あたしの頬を撫でる。


たったそれだけのことなのに。


心臓は嘘みたいに跳ねる。


心臓発作起こす人の気持ちが分かる。


体中に電流が走る。


自分の気持ちが、今、何処を向いているのか。


すぐに分かる。


「やっと、言う気になったの?」


なんで見透かされてんのー!!!


そんなに分かりやすいですか?あたし!!


怯むな!って思うのに。


もうすでに、逃げだしたいあたし。


だって、こんなの、ずるいよ!


菫哉はあたしの言いたいこと分かってる。


全部知ってて、あたしの言葉を待ってる。


じわじわ追い詰められてるのはあたし。


逃げ場無くして、どうしようもなくって・・・


パニクったあたしが必死に紡いだ言葉は。


「・・・い・・・言わない!」


なんで・・?


言葉にしたあたしが訊きたい。


だって・・・なんかこの状況が嫌だ!!


あたしばっかり、いつも、負けてる。


菫哉の一言に、行動に、いっつも振り回されてる。


あたしばっかり!!


「詩音。もーいいから、意地張らずに言って」


ため息ついた菫哉が呟いてあたしの髪に触れた。


「・・・な・・・なんでそんな・・・いっつもあたしに優しくないのよー!!」


「・・・優しくしてるでしょ?」


「菫哉のピアノはいっつも優しいのにっ肝心の菫哉が、一番あたしに優しくない!」


「・・・じゃあ、これから優しくする」


鷹揚に頷いて見せた彼を前に、あたしの決意は揺らぐ。


これってものすごい誘導尋問じゃないの?


どっちにしても、あたしは菫哉を好きって認めるしか無くて・・


結局これからも負けっぱなしってこと・・?


って・・あれ?


好きってことから、話がズレてる・・?


好きになると、弱くなるの?


好きになると、動けなくなる?


今だって十分すぎるくらい・・・あたしは揺れている。


「や・・・優しくって・・」


「一番詩音に優しくするよ」


そんなの一番信用できない。


菫哉は平気であたしから離れて行った。


1年間。


綺麗にすれ違ったあたしたち。


あたしが菫哉のピアノを恋しがったみたいに・・・


菫哉もあたしを恋しがってた?


「・・・寂しいって思った?」


「え・・?」


距離を詰めようとした彼の腕を掴んであたしは続ける。


「ピアノ弾いてくれなかった1年間。あたしのこと・・・思いだしたりした?」


寝る前には、いっつも。


菫哉のピアノを思い出した。


眠れない夜に弾いてくれた子守唄。


いつだって側にあった菫哉の音楽。


「思い出すっていうか・・・思い出さない様にしてたよ」


「なんで!?」


「・・・そんなの決まってるよ。会いに行ったら、こうなるってわかってたから」


背中に回された腕と、あたしの頬にあたる菫哉の髪。


ぐるぐる回る言葉の渦。


流されて溺れそうな、思考停止状態のあたし。


「・・・な・・・なんで抱きしめるのー!」


だって順番逆でしょう!!


我に返ったあたしのセリフに、菫哉が耳元で笑う。


「なんでって・・抱き締めたいから」


「そんなの理由になんないから!」


「昔は平気で抱きついてただろ?」


「む・・・昔と今は違うでしょ!子供のころの話を持ち出さないでってば」


「・・・へえ・・」


不思議そうな呟きに、あたしは眉根を寄せて口を開く。


「なによ・・」


とても好きな人から抱きしめられてる女の子のセリフとは思えない。


だって!!


この状況にうっとり溶け込めるほど、恋愛経験豊富じゃないし!


っていうか、そんな経験ありませんし!!


「ついこないだまで、平気だったのに。嬉しいことがあるたびはしゃいで抱きついてくるのはいつだって詩音のほうだった」


「・・・だ・・・だから・・それは・・」


幼馴染って思ってたし・・・別に・・・意識とかしたこと無かったし・・す・・好きとか・・思わなかったし・・ってなんでこれを言えないのよう!!


動かない自分の唇が憎い!!


「ようやく幼馴染じゃなくなったんだ?」


「・・・お・・幼馴染よ!だ・・大事だし・・ずっと仲良くしてたいし・・・まどちゃんは妹みたいに可愛いし・・・だから・・」


もうダメだ。


喋れば喋るほど迷宮入りするあたし。


菫哉があたしの顔を覗き込んできた。


夕日に照らされた彼の色素の薄い目が綺麗に光る。


見惚れてしまいそうになる。


「だから、幼馴染でいいってこと?」


「ち・・違う」


「じゃあ?」


何かを期待するみたいに、菫哉が目を細めて笑う。


あたしは止まりかけの思考を必死に動かして、言葉を紡ぐ。


「・・・お・・幼馴染から1歩なら進んでもいい!!」


「一歩ねェ」


そんな言葉とともに、あたしの頬に冷たいキスが降ってきた。

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