第30話 駄目、とまだ。
会社、休めば良かった。
終業15分前に盛大に溜息を吐いて、本当に友世は今更な事を思った。
会社、来なかったら余計な話し聞かなくて良かったのに。
微熱があったのに、我慢して出社自分が本当に、本当に馬鹿みたいだ。
ぐだぐだどうしようもない事を思いつつ、業務画面に伝票を打ち込む。
ついさっきメッセンジャーで届いたメッセージには”部活だから会えない”と返信していた。
部活の予定は無かったけれど、他に上手い言い訳が思い浮かばない。
今日は、瞬とは会いたくなかった。
電話もメールもしたくない。
「友世ー、さっきの伝票今日中に上がりそう?」
先輩であり上司でもある樋口佳織が、友世のデスクを覗きこんで来る。
「あ、ハイ、終わらせます」
笑顔で振り向くと、途端に佳織の右手が伸びて来た。
額を包み込まれる。
「熱、上がって来たんじゃないの?」
朝から、微熱がある事はバレテいた。
別段多忙な時期手も無いし、無理せず早退するよ言うに言われたけれど、薬を飲んだし、具合が悪くなったらすぐに伝えると約束して仕事を続けていたのだ。
「大丈夫です、すぐ帰りますし」
「明日、無理しないでいいからね?」
「はい」
「真面目なのは友世の良い所だけど、悪い所でもあるわよ?」
心配そうな顔で佳織が告げて、机の端にフルーツジュースのパックを置いた。
友世の好きな100%のフレッシュジュースだ。
駅前の地下に店舗が入っていて、目の前でジューサーにかけてくれるのだ。
「え・・・」
「さっき駅前まで出たの、ついでよ」
「佳織さん・・」
上司の優しさに思わず泣きそうになる。
佳織を見上げてお礼を言うと、悪戯っぽく微笑まれた。
「そんな熱っぽい眼で見られると、連れて帰りたくなっちゃうでしょ?」
友世は本社でも有名な美人事務員だ。
ミスコンでもあれば必ず上位3位以内に入る。
男が見たら絶対に放っておかないような魅惑的な視線で見つめられると、同性でもドキッとしてしまう。
こんな瞳で見られたら、彼氏は理性を保つのが大変だろう。
佳織は心でこっそり年下彼氏に同情してみる。
「今日は早く帰るのよ?大久保君は?」
「今日は会わないんでいいんです」
プイっと視線を背けると、佳織が眉を上げた。
「どうしたの?ケンカ?」
「あ、いえ大丈夫です」
最後まで心配そうな様子で気遣ってくれた佳織を何とか宥めて、終業のベルが鳴ると同時に部室に逃げ込む。
すぐに帰る事も出来たけれど、瞬にああいった手前、直帰するのは気が引けたのだ。
それに、このまま電車に乗って帰れる元気も無い。
少しだけ休んでから、ラッシュが過ぎたころ合いを見計らって帰ろうと決めた。
先週は1日しか部活をしていなかったので、約1週間ぶりの部室だ。
畳みの匂いと、お茶の匂いにホッとする。
部屋の隅に荷物を置いて、座りこむ。
友世はゆっくりと息を吐いた。
「嘘吐くなんて・・・酷い・・・」
思わず洩れた言葉に、だんだん怒りと情けなさが蘇る。
”火曜日、接待なんだ”
週末を一緒に過ごした後、別れ際に瞬が言った。
日曜日の夜21時過ぎ。
レジャー帰りの車が多い為か、道が混んでいて、郊外まで出掛けていた友世たちも見事に渋滞に嵌まってしまった。
丁度切りよくアルバムが終わった所で、次のアルバムを選ぼうとナビ画面を操作していた友世はさらりと答えた。
”接待?大変ねー”
”夜遅くなると思うから、連絡しないよ”
”分かった、気を付けてね”
にこりと微笑んで頷いた友世の頬を、左手の甲でさらりと撫でて瞬が笑った。
”その代りは明日は長電話しよっか”
その提案が嬉しくて微笑んだ、までは良かった。
約束通り月曜日は日付が変わるまで長電話をして、久しぶりに電話越しに”愛してるよ”と言われて嬉しかった。
事件は水曜日の昼食時に起きた。
食堂で、舞とランチを取っていた時に、斜め後ろのテーブルから聞こえて来た会話に、友世は目を丸くした。
”え!?昨日の合コン、大久保さん来てくれたの!?”
”うん、営業部の君田くんが連れて来てくれたのー”
”えー!うらやましすぎ!行けば良かった!”
”営業部のメンツ何度誘っても大久保君だけは絶対来てくれなかったのにねー”
”彼女とヤバイのかなぁ?”
”さー・・・あ、ちょっと!”
”あ!”
ここで、友世の存在に気づいたらしく会話途切れた。
目の前の舞が心配そうな顔で弁解する。
「きっと人数合わせに無理やり呼ばれたのよ」
「・・・接待って訊いてたの。合コンなんて一言も、聞いて無い・・」
「と、友世・・・熱上がっちゃうから落ち着いて」
慌てて舞が友世の腕を宥めるように叩く。
「何で・・・そんな・・・」
1人で思い出していると、だんだん泣けてくる。
何で嘘吐いたの?
何で隠してたの?
あたしの事もうどうでもいいと思ってる?
月曜日の甘いやり取りを思い出して、尚更惨めになる。
優しかったのは後ろめたかったから?
ぐるぐる回る思考のさなか割りこんで来た声があった。
「良かった・・・此処に居た」
「え・・・瞬君・・どうして?」
目の前にある恋人の顔を見てまじまじと瞬きしてしまう。
「さっき暮羽ちゃんに会って、今日は部活無いって聞いたから。おかしいと思って来てみたんだよ」
視線を合わせるように覗きこまれた瞬の目を一瞬だけ見つめて直ぐに逸らす。
「どうしたの?」
「どうしたのって・・・よく平気でそんな事言えるわね。知ってるのよ、あたし」
「何が?」
「合コン、楽しかった?」
「え・・」
「接待って嘘吐くなんて酷い!」
「ちょ、友世待って。誰から訊いたのそれ」
「食堂で女の子達が嬉しそうに話してたわよ!」
「俺は接待って言われてたんだよ。合コンだなんて知らなかったんだ。心配なら、営業部のメンバーに訊けばいいよ」
「ほ・・・ほんとに?」
「うん、ほんと」
「な、何で直ぐ言ってくれなかったの?」
「今日会いたいって言ったら、部活で会えないって言ったの友世でしょ?ちゃんと会って話したかったから」
「・・・な・・なにそれ・・・も・・・あたしがどんな気持ちでっ・・・」
1人で腹を立てて、情けなくなって惨めになって、泣きたくなった自分が馬鹿みたいだ。
年上なのに、ちっとも余裕じゃない。
何か事情があったかも、何て考える暇もなかった。
全然、瞬の事信じれて無かった。
あの時、ちゃんと会うって言ってたら・・・
考えれば考えるほど、泣きそうな自分が恥ずかしくなってくる。
掴まれたままの肩。
瞬の掌の熱を感じて、嬉しい気持ちと、反面、彼に対する申し訳ない気持ちがこみ上げて来る。
もっと、信じてあげなくちゃ。
あたしが、好きになった人なのに。
全然、駄目だ。
「あたし、帰るね」
瞬の腕を振り払うように立ち上がる。
と、途端目が回った。
「っ!」
思わずしゃがみ込みかけた身体を、瞬の腕が支えた。
「具合悪かったんだって?」
耳元で声がする。
抱き寄せられたのだと気付いたけれど、抗う気力もなかった。
「大丈夫・・・帰るから・・」
「何言ってるの、立てないでしょ?」
「違う・・・瞬君が抱きしめてるから立てないの」
手を離してくれたら、ちゃんと1人で立てる。
「じゃあ、立たなくていいよ。行かせない」
「・・・仕事、あるでしょ?あたしなんかに構うこと無いよ」
「仕事は後で、何とかするよ。友世の事放って仕事なんか戻れない。ちゃんと、謝らせて?」
抱え込まれたままで、額に唇が触れて来る。
ぼんやり目を開けたら、瞬の優しい視線とぶつかった。
「ごめん、朝時間作って話をしに行けば良かった。一番知られたくない所から、聞かせちゃったね」
「あたしも悪いの・・・全然、瞬君の事信じてあげられなかった・・・裏切られたって勝手に思って・・・話聞こうともしなかった」
「しょうがないよ。友世は悪くない。俺が悪いよ・・・何度でも謝るから・・・」
「ん・・・」
瞼に触れた唇が頬に触れて、唇を啄ばむように掠め取られる。
羽根の様にふわりと触れてすぐに離れた。
「許してくれる?」
「・・・怒って無いよ、悲しかっただけ」
「ごめん・・・ごめんね」
囁く度にキスが落ちて来る。
甘くて溺れそうになるのに、すぐに唇が離れてしまう。
友世の気持ちを測るみたいに繰り返されるキス。
「瞬く・・・怒って無いってば」
瞬の頬を両手で包み込んで笑う。
「だから・・・キスして・・・」
熱のせいだろうか?大胆なセリフを口にしたとは思ったけれど、後悔は無かった。
瞬が目を細めて柔らかく笑ってからチュ、と額にキスをした。
「ちょっと余裕無いから、やめて」
困ったように呟いて友世を強く抱きしめる。
キスが欲しかったのに叶えてくれないらしい。
「何で?」
「友世、今自分がどんな顔してるか知ってる?」
「分かん・・・ない」
此処には鏡が無いし、そもそもこの状況で自分の顔を確かめる術がない。
「俺と一緒に居る時に無防備なのは嬉しいけど・・・今はちょっと困るよ」
背中に回していた腕を緩くして、友世の肩に額を預けた瞬が、盛大に溜息を吐いた。
何だか、子供みたいに思えて可愛くて、瞬の頭をよしよしと撫でてやる。
「あーもう・・・」
「なぁに?」
「病人にガッツク訳行かないでしょう?」
言葉の意味に気づいて友世が体を固くした。
「か、帰る!」
「駄目、まだ行かせないよ」
笑って瞬が唇にキスをした。
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