第16話 気持ちの波が揺れる時

展示会ウィークを乗り切って、営業部が通常モードになるや否や、早速瞬から食事に誘われた。


カウンター席のみの鉄板焼きダイニングは、瞬の母親お勧めのお店らしい。


かなりの人気店なので、空いている日にちで事前に母親に予約を取って貰う、という連絡が来て、迷ってそのまま返事を返せていない。


次に会ったら、もう自分の気持ちを隠し通せる自信が無かった。


暮羽と相良の恋が成就するまでは、と自分から期限を切ったくせに、先に堪え切れなくなるなんて。


会社では分かりやすいアプローチはしない、という約束を取り付けておいて本当に良かった。


でなかったら、早々にゲームセットになっていた筈だ。


付き合ったが最後、数か月後に来る破局へのカウントダウンは始まってしまう。


それと同時に、暮羽との関係も壊れてしまう。


どちらの覚悟も出来ていない。


だから、意気地なしの自分は逃げるよりほかにない。


営業部へのお使いは、頼み込んで佳織に引き受けて貰い、掛かって来る電話には出ても、ちょっと忙しくて、と言って早々に通話を終える。


当たり障りメールには返事をするけれど、デートのお誘いは綺麗にスルー。


そんな対応を続けていたから、恋の神様から天罰が下ったのだ。


従業員入り口で待ち伏せされている可能性を考えて、非常階段から正面玄関へ抜けてこっそり帰宅するルートを選んでから一週間。


定時を三十分ほど過ぎたフロアをコソコソを抜け出して、今日も非常階段へ向かう。


誰にも会わなかったことにほっとして、のんびりと一階までの降りようとした矢先。


上の階のドアが開く音がした。


「なんでエレベーター緊急点検なんだよ」


「この間の本社会議の日に、一基だけ無理言って終日稼働させてた代わりの点検日が今日らしいですよ」


「降りるのはまだいいけど、これ上るのがなぁ・・・」


「どうせ定時過ぎてますし、暫くコンビニで時間潰します?」


「そうするかー。課長たちもう帰ってるしなぁ」


聞こえて来た男性社員のうち一人の声に聞き覚えがあり過ぎる。


リズミカルに階段を降りて来る革靴の足音が、すぐそこまで近づいてきて、友世は咄嗟に二階のフロアに続く鉄のドアを引き開けた。


女子の片手ではちょっと厳しいそれを、必死に引っ張っていると、真後ろで声がした。


「あれ・・・川上さ・・」


「!!」


瞬と一緒にコンビニに向かう予定だった営業が、後ろ姿に気づいて声を上げる。


万事休すだ。


友世は僅かに開いたドアの隙間に必死に身体を滑り込ませた。


気付かない振りをして、そのまま奥へと逃げ込む。


と、盛大な舌打ちと共に、後ろから伸びて来た腕にドアを大きく開かれた。


たたらを踏んで前につんのめった友世の腰を、回された腕が攫う。


大きな音と共に、二人の後ろで重たいドアが閉まった。


「だからっ・・・なんで逃げるんですか?」


今まで聞いた事も無いような苛立ちを露わにしたその声に、思わず身を竦ませた。


彼には怒る権利がある。


が、幼馴染以外から、こんなに直接的に感情をぶつけられたことの無い友世は、瞬時にパニック状態に陥った。


「・・・・あ・・・会うと困るから!」


「・・・困るって、なんで?俺、なんかしました?」


「あたし、覚悟が出来てないの。振られる覚悟も出来てないし、暮羽ちゃんに嫌われる覚悟も出来てない!」




★★★★★★



あれだけ会いたいと思っていたのに、漸く時間が取れると思った途端、分かりやすく避けられるようになった。


どれだけ考えても原因は不明。


彼女が体調を崩してから、デートコースも改めたし、無理な誘い方はしていない。


二人で出掛けている時には友世も笑顔を見せてくれるし、こちらからの分かりやすいアプローチに戸惑いはするものの、拒むことは無い。


上手く距離を詰められている手応えがあった。


友世がしきりに気にしている相良と暮羽の事も含めて、どれだけ時間を掛けてもいいとさえ思っていたのに。


これまでの自分の恋愛とは比べ物にならない位、スローペースな関係は慎重すぎるほど。


気まぐれに連絡を寄越して来る元カノ達からのお誘いには綺麗にお断りをしているし、友世への気持ちを疑われるようなことは何一つだってしていない。


だから余計な事に分からない。


約束を破って総務部まで捕まえに行く事も考えたが、それをしたら今度こそ完全に終わってしまう気がして、ひたすらメールと電話のやり取りを続けたが、それでも埒が明かず。


完全に手詰まりの状況で、久しぶりに彼女の後ろ姿を見かけた瞬間に、見事にスイッチが入った。


全力で逃げようとする友世を捕まえるまでに要した時間はおよそ30秒。


腕の中に閉じ込めた彼女に投げた質問への答えを聞いた瞬は、唖然となった。


「え・・・待って、振られるって誰に?」


「大久保君以外誰がいるのよ!?」


「俺が振る訳ないでしょ・・」


「あ、あたしこれまでのあなたの恋愛遍歴を知ってるんだから!」


「・・・付き合う前から振られる心配すんのやめてくださいよ・・・」


「だ・・って」


俯いたまま彼女がくすんと鼻を啜った。


しまった。泣かせるつもりでは無かった。


少なくとも彼女の気持ちがいま何処にあるのかこれではっきりしたので、少しだけ余裕が持てる。


それでも腕を解けばまた逃げ出しそうで、どうしてもそれが出来ない。


項垂れたままのつむじにキスを落として、ひょいと横顔を覗き込んだ。


「怖がりなのはわかったから・・・で、その覚悟が無いから俺から逃げてたんですね?」


「・・・・」


「でも、もう捕まえたから今更ですよね?」


「待つって言ったの大久保君なんだから・・・あたしはまだ何も言ってません。答えも出してません。だから、今日は帰らせてくださいっ」


噛み付かんばかりの形相で言われた。


はずなのに、怒るどころか胸に広がるのは言いようのない愛おしさで。


えーっとこの状況どっかで見たことあるぞ・・・


いつだったっけか?


眉間に皺をよせて記憶を馳せる。


そう、親友が時折、不機嫌な彼女に対して見せるあの表情だ。


『お前のその心境がわかんねーよ・・・』


ケンカをして、キャンキャン吠えまくって、最終的には佳苗たちのもとに泣きつきに行った葵の背中を見送ったあと。


第三者を決め込んで、隣の部屋で退屈しのぎのゲームをしていた瞬が、なぜかにこにこと愛想のよい笑みを浮かべる啓一郎に対して言ったセリフ。


問われた啓一郎はケロリと一言こう答えた。


『葵が、あれだけ感情開けっ広げにすんのって俺に対してだけだよ?すんごい愛情感じない?』


・・・・ふーん・・・こういう気分だったんだ。


今なら分かる。


目の前の彼女が、自分の一言でくるくると表情を変えることの楽しさ。


”動揺”するのは、”恋愛感情”に繋がってるからでしょう?


問いかけたいけれど・・・今のところ彼女の答えは・・・・いや、訊くまでもない。


「・・・なんで俺に対して敬語なの?」


思わず笑ってしまった瞬をじろりと睨んで、友世は今度こそ泣きそうな声で言った。


「あたしっ・・・これでも先輩よ!?揚げ足取るようなこと言うなんてっ・・・嫌い!」


嘘みたいに。


胸に突き刺さった。


深く、深く。


言い逃げよろしく腕の中から抜け出そうとする友世を、より深く抱き込んだ。


「嘘、でしょ?」


これだけは否定して貰わないと。


祈るような、気持ちで囁けば。


「・・・・っ」


両目に涙を浮かべて、険しい表情でこちらを見上げる彼女と視線がぶつかる。


実力行使とか、ありえないと思っていたけれど。


こうなったら後先考えてなんていられない。


じゃなくて、いたくない。


前、でも、後、でも、答えは同じだ。


そう思えば、友世の髪はいつも緩く巻かれている。


たぶん、パーマとかじゃなく、毎朝自分でしているんだろう。


その綺麗にカールした髪を掬い取る。


いつか、訊いてみたいと思ってたんだ。


”誰”に対してなら、何にもしてない”川上友世”を見せれるの?


例えば、朝起きて鏡の前で真剣な顔でブローする彼女の後姿を眺めてたい。


そんな風に初めて思った。


女の裏舞台なんて覗き見するもんじゃないし、そもそも興味も無い。


自分と一緒のときに、綺麗にしてくれるのは嬉しいけれど、その過程なんて気にも留めなかった。


”女の子は大変なんだねー御苦労さま”その程度のもんだ。


だけど、彼女に対しては違う。


啓一郎が言ったみたいに。


きっと、彼女が何をしても、何を言っても。


結局受け入れてしまう自分がいる。


両手上げて先に降参したのは俺の方。


なんでもいいからそばにいてよ。


そう思ってしまったから。


だから、もう待てないと思った。


髪に触れた時点で彼女の警戒心はピークに達したようで、分かりやすく身を固くした。


指を絡めたままの髪をするりと抜き取って、非常灯のせいで少し青白く見える頬に指を滑らせる。


顎に滑らせた指を持ち上げて振り向かせると、僅かに屈みこんで視線を合わせた。


反射的に彼女が瞳を閉じた。


驚いたのか、覚悟の上だったのかは分からない。


けれど、制止の声は上がらなかった。


一瞬だけ唇を掠めて、触れた柔らかい感触に引き寄せられるように二度目のキスをした。


ひやりとした冷たい鉄のドアに背中を預けたまま、彼女の震える指先をそっと握る。


もし、キスした後に、引っ叩かれたとしても甘んじて受けよう。


それ位の覚悟はあった。


それ以上に、彼女がさっきの言葉を否定する自信があった。


ここまで来て、嫌い、は無いでしょう?


前髪が微かに触れて、シトラス系の香りがした。


それだけで、一気に緊張が高まる。


もう嫌になるほど慣れてるコトのはずなのに、驚くくらい心臓が速い。


目を閉じて微動だにしない友世の耳たぶを撫でて、欲しい言葉をどうにか引き出す。


「死ぬほど傷ついたから、撤回して」


上唇を掠めて祈るように呟けば、消え入りそうな小さな告白が聞こえて来た。

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