第9話 透明人間と無防備な彼女

 それから布団を受け取り、夕食はウーバーした。

 布団を持ってきた和加菜さんが、


「プラトニックなのは日暮くんっぽいわ」


 と言っていたのは気にしないことにする。

 むしろ気にしなければいけないのはここから。


「風呂、入るか?」

「んー、別にいいかな」

「先か後か、どっちがいい?」


 湯は張らないにしても、毛が落ちているのが嫌とか使った後を見られたくないとか、色々あるだろう。

 少し考えるような仕草のあと、愛奈は「先にする」と言った。

 カバンからお泊りセット的な袋を取り出し、風呂場へ向かう愛奈の背中を見送る。と、彼女がくるりと振り返った。


「一緒に入る?」


 悪戯に笑う愛奈をじっと見つめ返し、ため息混じりに呟く。


「そうするか」

「えっ、やっ、ちょっ」


 目に見えて動揺する愛奈の方に近づいていき、目の前で立ち止まる。

 赤く染まった顔に見える感情は不安と焦り。わかり易い。


「馬鹿なのか?」

「ばっ!?」

「そういうことはしないから。ほら、早く入れ」

「は、はーい」


 今度こそ風呂場に入っていった愛奈を見送り、俺は定位置に胡坐をかく。

 机に頬杖を突くと、シャワーの音が聞こえ始めた。

 目的はなんだ、と考えてしまう。突然押しかけて泊めろと言うのに理由が無いわけがない。本人に直接訊くような無粋な真似はしないつもりだが、自分の中で無駄な詮索は進んでしまう。

 予測の範疇ではあるが、愛奈はおそらく一人暮らしだということが、元からある情報としてわかっている。であれば、親と喧嘩したという理由は通らない。ギャルっぽく振舞っていたのはポーズで、今後俺の部屋が理不尽に占拠されるようなことは無い、はずだ。では、なぜ急に泊まりに来たのか。考えをまとめたせいで謎が深まってしまった。

 これ以上はやめよう。俺自身にも隠し事はあるのだから。

 本でも読むか、と立ち上がったとき、風呂場の戸が控えめに開いた。


「あのー……」


 顔を出した愛奈に俺はギョッとする。熱を持って紅潮した頬と濡れそぼった髪が風呂上りを演出して、妙に艶めかしく、童顔も大人びて見える。

 そのまま目を離せずにいると、彼女は遠慮がちに口を開く。


「服を忘れちゃって……」


 その声で我に返る。思わず凝視してしまっていた自分を恥じつつ、頭を掻いた。


「下着はあるのか?」

「うん、ある」


 ならば、と俺は押し入れから着られなくなったシャツと短パンを何枚か引っ張り出す。それをドアの前に置き、風呂場から背を向ける。


「適当に選んで着てくれ」

「あ……、ありがと」


 狭い部屋の中で衣擦れの音が後ろから聞こえてくる。

 俺の服は彼女にとっては間違いなくオーバーサイズで、その破壊力は重々承知の上。いわゆる『彼シャツ』の衝撃に備えなければならない。まあ、彼ではないが。とはいえだ、九九でも唱えるか……。


「いいよ、日暮さん」


 三の段に差し掛かったあたりで声が掛かった。備えなんてできていない。正直な所、何時間あっても完璧な備えはできないだろう。

 覚悟を決め、ゆっくりと振り返る。

 艶やかな髪はまだ少し濡れていて大人びた印象を俺に与えてくる。そして想定通りのオーバーサイズ。胸の分を考慮しても余る袖は世の男の夢を形にしたよう。そして想定外は、赤面しながら服の裾を押さえる左手と、積まれたまま高さが変わっていない短パンの山。

 薄目で見るつもりが、俺の瞼は言う事を聞かずにカッと見開かれ、慌てて両手で顔を覆った。


「なんで履いていない!?」

「だ、だって。履いてもずり落ちちゃう……」


 俺はどうやら自分と愛奈との体格差を完全にはわかっていなかったらしい。俺自身は比較的細いと思っていたのだが、こうなると改めて愛奈のサイズ感を理解してしまい、彼女の方を向けなくなってしまう。

 だが悠長にしている暇は無い。


「押し入れに色々あるから、もう少し防御力が高いものを探して着てくれ」

「日暮さんは?」

「俺は風呂に入る」


 問答もそこそこに、視線は床から外さずに風呂場へ逃れる。

 ふうっ、と息を吐く。愛奈自身に誘っているつもりは無いだろうし、俺も誘われているとは思わない。それでも心臓に悪い。

 シャワーは壁掛けのまま、栓をひねる。目の前の台に見覚えの無いコンデショナーを見つけて、脳内に左手で服の裾を押さえる愛奈の姿が浮かぶ。体の汚れは落ちても、心の汚れが洗い流されることはない。

 シャワーを止めて鏡を見ても相変わらず俺の姿は映っていない。体に付くシャンプーやボディソープの泡は宙に浮いているように見える。だがそれは自分が存在していることを改めて確認できる数少ない光景だ。そんな光景に安心するようになってしまった自分に苦笑する。

 再びシャワーを出す。

 自分の存在がはっきりとしないから、実は夢なのではないかと常に疑ってしまう。愛奈という少女も自分が作り出した都合の良い妄想なのかもしれない。

 それでも、頼られるのなら。

 お湯を止め、体を拭く。適当に出しておいた服を着て、風呂場の戸に手をかける。


「ふう……」


 彼女の前では大人でいようと、戸を開いて一歩踏み出した。


「日暮さん! 何も無いよ!」


 愛奈の声がした押し入れの方を見て俺は立ち眩みするような感覚に陥る。

 視線の先には、押し入れに頭を突っ込んで後ろが無防備な愛奈の姿。わかりやすく要約すると、俺の目の前にはケツがある。

 恥じらいはあるはず、ただどこか抜けている。ともかく、頼れる大人でいようという決意はその場で役に立った。派手な下着じゃなくてよかった。

 ケツのことは軽く注意し、愛奈には友人が置いていった服を着せることにした。ガタイの良い友人のおかげで着せた白いパーカーは愛奈の膝上辺りまでしっかり服に収まって、俺は一安心。愛奈の方は全く知らない他人の服を着せられて少し不服そうだった。

 さて、夕飯も風呂も終えてあとは寝るだけなのだが、いかんせん時間が早い。

 俺も愛奈も9時に寝るほどの健康志向ではない上に、この状況のせいで目が冴えて仕方がない。それは愛奈も同じようで、読みもしない俺の本をパラパラとめくっては閉じてを繰り返している。

 ふと、思いついたように愛奈が俺の方を向いた。


「日暮さんてさ、なんで透明になったの?」

「知るかそんなもん」

「じゃあさ、透明になる前は何してたの?」

「言いたくない」


 人が知って得はしないし、知られて減るものが俺にはある。きっぱり断ると、愛奈は頬を膨らませてさらに訊いてくる。


「むう……。じゃあ透明になった日の話とかは?」

「暇なのか?」

「うん。ヒマ」

「正直だな……」


 透明人間のノンフィクション話と聞けば、それは非常に興味深いものだ。俺だってその透明人間が自分じゃ無ければ聞いてみたい。


「寝るなよ?」

「寝るかも」


 こうもはっきり言ってくれるとむしろ清々しくて話しやすいものだ。

 軽口を叩いている割に熱視線を送る愛奈の期待に応えるため、俺は一つずつ思い出しながら、その日の事を話し始めた。

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