第8話 透明人間と嵐の大家
「日暮くん! 聞きたいことが……」
勢いよく開いたドアと共に、耳馴染みのある通りの良い声が部屋に反響する。あれ、そういう壁だったっけか?
ともかく、予想していた通りに大家さんは俺の部屋に来た。
普段ならしつこさ故に避けるようにしているのだが、今はその必要も無く、正面から大家さんを迎えられる。
今は大家さんの後ろであたふたしている愛奈に目が行くほど余裕がある。
さあ入ってくるがいい、と構えているとどうしたことか、大家さんは怪訝な顔で俺の方を見つめている。
「いつもなら会うのを嫌がるのに……。今日は隠れないのね?」
「へ?」
声が漏れたことに気付いて口をつぐむ。勢いのまま呼吸も止める。
大家さんには俺の姿は見えていないはず。それならさっきのセリフはなんだ。
丁寧に靴を揃える大家さんに続いて愛奈も部屋に入り、ドアを閉めた。
と同時に大家さんは動いた。
「さあ、どういうことか話してもらうわよ日暮くん」
机の反対側に腰を下ろすと、大家さんは俺を真っ直ぐに見つめて間髪入れずにそれだけ言った。まさか、と祈るような思いで体を左右に揺らしてみると、彼女の視線はピッタリとそれに付いてきた。
訊くまでも無いことぐらい本当はわかっている。それでも少ない可能性に懸けて、その疑問を口に出した。
「見えてるんですか……?」
「何を言っているの、日暮くん。透明にでもなっちゃった?」
笑い混じりに言う声は俺と愛奈を震えさせた。大家、恐るべし。
「とにかく、愛奈ちゃんも座って?」
手招きを受けて、その有無を言わせない圧に促されるまま愛奈はそっと俺の隣に座った。
大家さんは一度ずつ交互に、値踏みするように俺たちの顔を見た。
「じゃあ改めて、日暮くん?」
「はい……」
こうなると話すしかない。
さて、どう躱そうか。透明なことは隠すべきだろう。愛奈との関係もある程度ごまかす必要がある。となると今日泊めることなんてどう説明すればいいのか。
考えれば考えるほど答えられることが少なくなっていく。
「あの、」
やはり話した方が都合がいいか。そう思って口を開いたその時、袖を引かれた。
引かれた方向に視線を送ると、愛奈は唇を引き結んで肩を震わせていた。それは怒っているようにも、怖がっているようにも見えない。しかし、袖を引いた彼女の指には何かの決意を感じた。
「親戚です」
気づけばそんな小さな嘘が口をついて出ていた。
「最近、親とケンカ続きらしくて、たまに部屋に上げています。大家さんの考えているようなただれた関係は一切ありません」
自分の持てる言葉をゆっくりと、紡ぎ出していく。嘘と本当を織り交ぜて話すほどの冷静さには我ながら少し驚いている。
大家さんはただ真っ直ぐにその言葉を受け止めて、微笑を浮かべる。
「日暮くん?」
「はい」
「面白くないわ」
「は?」
大家さんはふいに立ち上がり、俺の背後に回ると、首に腕を掛けた。
「あの日暮くんが! あの彼女いない歴イコール年齢の日暮くんが! 初めて女の子を連れてきたから絶対何かあると思ったのに! プロ野球やってる時間よ? 私がそれを見ずにこっちに来てるのよ~!」
「痛い痛い痛い、ギブ、ギブです大家さん!」
なんとか顎を挟んではいるが、ほぼ完璧にスリーパーが極まっている。クッション性も少ないためか非常によく締まっている。
頭が回るうちに腕を叩いてギブアップを宣言するが、大家さんの腕は緩まない。
「わ・か・な・さん、でしょ~!?」
「わ、
全力で謝ると、絞める腕が少し緩んだ。
スルリと抜け出すと数度咳が出て、目を丸くしている愛奈の隣に改めて正座する。この人の沸点がわからん。
とにかく今はこの場を収めることが先決だ。俺は正座の状態から深々と頭を下げようとした。
「まあいいわ」
しかしそれより先に冷めた声が聞こえ、俺は顔を上げる。
いつの間に移動したのか、和加菜さんは既に玄関の前で自分の靴を履いていた。
「それじゃ、布団だけ後で持ってくるから」
そう言って返事も待たずに和加菜さんは部屋を去り、ドアの閉まる音だけがそこに残る。
嵐は過ぎ去った。
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