第10話 透明人間と透明になった日

 その日は良く晴れた暑い日で、シャワーでも浴びようかと起床後すぐに風呂場に向かい鏡を見ると、そこに俺の姿は映っていなかった。

 ひとまずバイト先に休みの電話を入れた。

 まず、ついさっき脱ぎ捨てたパンツを洗濯籠から取り出した。これは映った。

 続いてそれをもう一度履いてみる。すると、青白ストライプのトランクスは宙に浮いているように見えた。せっかくなのでスマートフォンで撮影してみると、ひとりでに躍動するトランクスの映像が撮れた。

 さらに俺は全裸のままベランダに出ると、ちょうど洗濯物を干していたお隣さんに会釈をしてみる。普段ならこちらにすぐ気づいて挨拶ぐらいはしてくれるのだが、今日はこちらを見ても全く視線が合う様子が無く、結局そのまま部屋に帰って行ってしまった。

 一度部屋に戻ると、コップにお茶を汲んで鏡の前でそれを飲み干す。また確認すると、飲む直前まで見えていたお茶がどこかに消えていく不思議な映像が撮れていた。

 そしてようやく、俺は自分自信の置かれた状況をある程度予測する。


「透明人間、ねえ……」


 なぜ透明人間になってしまったのか、と考えてみて思い当たるのは昨日。

 晩酌の肴に透明人間の存在について語るコントを見ながら、「透明……なりてえ……」と口にしてしまったことぐらい。


「どうしたものか……」


 こういう場合にどうするべきなのか、全くわからない。

 人には無い能力なわけだから、何かに使わなければもったいない。かといって私利私欲のために使うのは何か違う。人並の性欲とある程度の知識はあるが、エロ漫画みたいな暴れ方はしたくない。

 考えに考えた末、一度外に出てみることにした。

 影もなくなっていることは確認済みなので、おそらく大丈夫だろう。

 裸足でコンクリートを踏むのは初めてだ。

 外の空気を全身で感じているから全裸に間違いは無いのだが、誰も俺の姿を咎めようとしないことに違和感が溢れてどこか気持ち悪い。

 人間にそもそも衣服の文化は無かったのだと、自分の異常行動をなんとか正当化しつつ歩いていると、大通りから少し反れた場所に見慣れない小綺麗な看板を見つけた。


「世も末屋……?」


 普段なら絶対に入らない怪しげな店に、俺は引き寄せられるように足を踏み入れた。

 店内は閑散としていて品物は一つもなく、おそらく大学生ぐらいの青年が一人、立っているだけだった。


「あらゆるものをオーダーメイドで、世も末屋でございます」

「見えるのか」


 青年から突然話しかけられたことに驚きつつも、冷静な自分を崩さないようにする。


「ええ、随分とご立派で」

「男から男でもセクハラは成立するぞ」

「ではあなたの格好をわいせつ物陳列罪辺りで訴えましょうか」


 何も言えなくなった俺に対して、はっはっはと笑う青年は全く気にする様子もなく話を続ける。


「さてお客様、何をご所望でしょうか」

「何でもいいのか」

「ええ」

「お金は」

「初回ですので頂きません」


 都合が良すぎると思いつつも、俺は自然と言葉を引き出されるような気がした。


「俺が着ても不自然にならない服をくれ」

「ご用意しております」


 俺が言うやいなや、無地の白シャツとジーパン、そしてシンプルなトランクスが三セット目の前に姿を現した。許可をもらって試着すると、サイズは完璧で着心地も申し分ない。

 そして肝心の鏡には、


「映っていない……」


 俺はにこやかな表情をそのまま崩さない青年を見つめて訊いた。


「この三セットでタダなのか」

「ええもちろん。靴下とスニーカーも付けますよ」

「あ、ありがとう……」


 タダより高いものは無いとは言うが、こういう意味で使う言葉とは違う。

 お値段以上にも程がある買い物をして、俺は改めて街に繰り出したのだった。


 ***


「……で、何日か経ってお前と会う、って感じだな」

「日暮さんって変態なん?」

「違うが?」


 俺の持ち得る限り最速で否定する。

 全裸でお隣さんに顔を見せたのも、外を歩いてみたのも、全てただの実験であって透明になる前からそういう願望があったわけではない。


「ふーん……?」

「やめろ。その微妙な顔で俺を見るな」

「んふふ」


 俺の困る姿を見て愛奈は意地悪に笑うと、「大丈夫だよ」としっかりした声で続けた。


「ストレートな変態さんなら、アタシはとっくに襲われてるやろうし」

 それに、と。

「逆に、ここまでなんにもしないのは色々こじらせた変態さんなのかな、とか思ったりして」

「違うが?」

「ふーん……?」

「何かしてほしいのか?」

「や。そうじゃ、ない………………気ぃがする」


 二度も同じ流れにしてたまるか、と反撃すると愛奈の声はしぼんでいった。

 最後の方はよく聞き取れなかったが、拒まれたことさえわかればそれで良し。出会ってすぐの頃、同じ問いを拒まなかった事を思い出して彼女の成長を感じてしまう。


「でもさ、日暮さんは考えすぎやと思うな。もっとシンプルにいこうよ」

「そうか」


 なおも一人で喋り続ける愛奈に相槌を打ちつつ、彼女の言葉の端々に違和感を覚えて首を捻る。


「イントネーションか……?」


 思い浮かんだ言葉をそのまま口に出すと、愛奈に怪訝な顔をされる。そのまま顔を見つめていると、俺は口から漏れ出た自分の言葉に合点がいった。


「愛奈、自分のこと呼んでみろ」

「日暮さん?」

「そうじゃない。愛奈自身のことを呼んでみてくれ」

「あー……アタシ」

「無理をしているだろ?」


 俺がそう言うと、愛奈の目は驚きに色付いて見開かれた。

 それから口元をかすかに動かし、


「なんで?」


 と純粋な疑問を俺に投げかけた。


「まず、さっきから自分の喋り方が戻っていることに気付いていないだろ? 『だ』が『や』になっていたり、一文字の言葉が少し伸びたりするのは元々の方言に近いはずだ。それをふまえた上で、お前の言う『アタシ』はイントネーションがブレ過ぎている」


 淡々と俺が考察するのを、愛奈は静かにじっと見つめている。


「もうやめないか? お前が元々関西弁なのは知っているし、ギャルを振舞っているだけなのもわかっている。それに、」

「日暮さん」


 愛奈の鋭い声が俺の口を閉ざした。

 見たことも無い彼女の厳しい表情に、俺は踏み込み過ぎたことを後悔する。

 このまま出ていくなら追わなければいけない。拗ねたら、怒ったら、泣いたら、と頭の中で対応が浮かんでは回っていく。何はともあれ、まずは軽率な行動を謝ろう。

 重たい空気に包まれて俺が思考を巡らせていると、間をおいて彼女が口を開いた。


「いやー、上手いこと隠してたつもりなんやけどな。やっぱりアカンかったか。よう見てるな、日暮さんは」

「そ、そうか……」


 急な口調の変化に対して俺は気の利いた返しもできない。

 ただ、底抜けに明るく、流暢に話す愛奈の声はいつもより無理をしているような、どこか不自然に聞こえた。


「わかった。日暮さんの言う通り、これからは普通に喋るしギャルのフリもやめる。

やから、これまで通り、ね?」

「ああ、うん」


 愛奈の早口に押されるまま、ただ頷く。

 彼女の声から感じるのは、何かを言わせまいとする強い意志と一抹の不安。

 俺の思案もよそに、愛奈は小さくあくびしながら目を擦る。


「ふあ……。透明になる前の話も聞きたかったんやけどな」

「それはまあ、また今度な」

「ん。今日は寝る」

「ああ、おやすみ」

「うん。おやすみなさい」


 そう言って布団にもぐると、愛奈は俺に背を向けた。

 愛奈は賢いのだと思う。

 俺の話を遮ったのは、それ以上踏み込んで欲しくなかったから。それ以下のことを認めたのは、話を早く収束させたかったから。人間関係の中でも特に駆け引きに必要な、守るべきものと切り捨てられるものとの線引きがしっかりとできている証拠だ。意識的なのか無意識的なのか、という点はこの際問題ではない。なぜその判断がこの年齢で既にできてしまうのか。その答えはきっと、彼女が遮った問いの先にある。

 どうやってもまとまらない考えを、一旦頭の隅に置き直した。

 隣を見れば、寝息に合わせて華奢な体が布団の中で上下しているのがわかる。

 誰かが隣で寝ているのはいつぶりだろうか。

 そう感じてしまうと、安心感からだろうか、それともただの疲れか、やけに強い眠気が襲ってきた。

 普段ならまだ起きている時間ではあるが、眠気に抗ってまで起きている用事は無い。

 体の赴くままに電気を消し、布団を被り、目を閉じた。



 そして目覚めた時、隣に愛奈はいなかった。

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