第6話 透明人間と世も末屋

 目を覚ましてすぐに時間を確認すると、正午を過ぎていた。

 だが、最近ではそれもほとんど毎日のことで別段驚きも無い。

 一旦カーテンを開けて日差しを入れると、瞼が徐々に開いてくる。

 光を透過するタイプの透明人間にならなくて本当に良かった。

 体と一緒に思考も目覚め始めると、一度壁掛けのカレンダーに目を移す。

 カレンダーは毎年ここの大家さんが住人全員に配っていて、今まで買う習慣が無かった俺にとってはありがたい。が、

 なぜタイガースなのか。

 今日もカレンダーの上半分では伝統の縦縞を着た虎戦士たちが躍動している。関西に引っ越せば良かったものを、なぜこっちで大家をしているのかは謎である。

 それはさておき、今日は休日だ。普段通りなら、愛奈が家に来ない。

 愛奈が家に来るのは基本的に平日の午後。

 本も食材も定期的に買い出しをしてくれて助かっている。その上、最近では自分をギャル風に偽らなくなって、心を開いてくれているのかもしれない。

 俺の方も愛奈が来ることを見越して飲み物を用意していたり、全く洗わなかった座布団を洗うようにしたりと、気を回すようになった。

 なんか、あれだ。「離婚して親権取られた父親の家に娘が遊びに来ている」みたいな。

 我ながら秀逸な例えだと思う。実際のところは、誰かの親になったことも無い上に、彼女すらいたことが無い。はあ……。

 ため息に色々な感情を乗せつつ、今日の過ごし方を考える。

 普段であればすぐに読書を選ぶのだが、近頃は少し様子が違う。

 外に目を移せば、少ないながら道行く人は皆、半袖、半ズボン、といった薄着でじっとりとした汗を垂らしている。中には上裸のやつも……、早く捕まれ。

 テレビの代わりにスマートフォンで確認した天気予報なら、今日の最高気温は26度の夏日だ。世間がそういう状況の中、俺の格好は長袖の黒いパーカーに通気性の悪いスウェット。誰が見ても暑苦しいのだから、着ている人間はもっと暑い。愛奈に頼むかとも思ったが、男物の夏服を女子高生に買わせるのも少し気が引ける。頼めばきっと買ってきてくれるのだろうが、依存し過ぎるのも良くない。さっきから俺は何を言っているんだ。思考がまとまらない。

 原因はまあ、あれだ。


「うるさい」


 窓を開けて心からの言葉を口に出す。

 本当は叫びたいところだが、流石に自重するだけの冷静さは残っていた。

 うるさかった蝉の声は俺を煽るようにその声を大きくする。


「すまん。お前らも彼女が欲しいんだよな」


 一週間という短い生を、パートナーを探して子孫を残すためだけに使い切るのだ。

 それ以上の時間を生きていて、探す努力すらしていない俺よりよっぽど立派だ。出会い系でもやろうかな、透明だから無理か。

 蝉に話しかける変人と化した俺は、うわごとのように呟く。


「服でも買いに行くか……」


 どうせ行くのは普通の服屋ではない。

 決心がついてしまえば人間という生き物は案外やるもので、根っからのインドア派が外に出ることだってあるのだ。

 部屋のドアを開けて一歩踏み出すと、肌を焼くような熱波がダイレクトに襲い掛かる。

 前に出した足を下げ、一旦ドアを閉めた。

 別に前言を撤回するわけでは無い。決意が揺らぐと後退してしまうのもまた人間という生き物だ。

 ドア越しに伝わる熱が前に出ようとする足を止め、やはり蒸し暑い部屋が後戻りを許さない。暑さと暑さの板挟みに、出るべきか出ないべきかとシェイクスピアばりの葛藤を余儀無くされる。

 二度目のため息。

 どうせこれから先もっと本格的に暑くなる。真夏日、猛暑日になって「あの日行っておけば」となるのは目に見える。回らない頭でもそこまでわかればあとは早い。

 鍵を閉めて外に出ると、一度大きく空気を吸い込む。こうすると外の暑さに慣れたような感じがする。

 目的地へ歩いている間、誰かの視線を感じることは無い。

 たいてい愛奈が部屋に居たせいか、久しぶりに自分が透明人間であるということを実感する。

 透明になったばかりであればこの光景はもっと新鮮に見えたのだろうが、今ではなんとも思わない。たまに好奇心から全裸で外を歩くこともあったのだが、愛奈に出会ってからは考えることすら無くなった。

 そういえば、透明人間=エロみたいな風潮は根強くあるが、実際になってみると案外そういうことをする気にはならない。いつ戻るのか、もし見つかったら、という心配の方が強いせいかもしれない。


「……おっと」


 誰に話すでもない考え事をして暑さを紛らわしていると、いつの間にか目当ての店の前に着いていた。

 大通りから反れてちょっとした裏路地に入るとすぐに『世も末屋』と書かれた小綺麗な看板が目に入る。その入口にドアは無く、先は暗い。しかし、一歩足を踏み入れれば目の前には異様な空間が広がる。

 外見からは想像できないほどの広い店内に品物は一つも無く、あるのは正面のカウンターのみ。そこに立つ糸目の青年は俺を見かけるとゆっくり近づいてきた。


「あらゆるものをオーダーメイドで、世も末屋でございます」


 そう言ってニッコリと微笑む彼を見つめて、俺は眉をひそめる。


「その堅苦しい挨拶は一見さんだけにしておいたらどうだ?」


 俺の声を聞くと彼は少し目を見開き、それもそうですねと相槌を打った。


「それで、何かご入用ですか?」

「ああ、夏物の服はあるか?」

「なるほど……。少しお待ちください」


 そう言うと彼はカウンターのさらに奥へ入って行った。

 二回目ではあるが、この店の空気感は非常に好きだ。

 何も無いからこそ頭を空っぽにすることは容易く、待っている間立ちっぱなしでいることも苦にならない。店員の彼も踏み入ったことは聞かないし、何より俺の姿が見えている。

 だから俺はこの店に惹かれたのだろう。


「お待たせしました」


 思いを巡らせている間に彼がカウンター奥から戻ってきた。腕には涼しげな服の上下セットが掛かっている。


「こんな感じでどうでしょう」


 彼が持ってきたのはカチッとしたワイシャツ、ラフなTシャツ、スポーティなウェアの三種類だ。簡単に言うと、男性用の半袖三着。それと、下着じゃない方のパンツも合わせて付いてくる。

 もちろん、鏡には映らない、普通の人間には見えない仕様だ。


「全部買おう。合わせていくらだ」


 即決すると、彼はまたニッコリと微笑んで三着のセットを持ってきた袋に詰め始める。この袋も配慮されて透明仕様だ。


「ざっと三千円ですかね」

「……大丈夫か?」


 思わず心配になる値段だ。仕入れ値よりも下じゃないのか?

 しかし彼は首を横に振るだけだ。


「あなたのような人を助けるのがウチの店です。利益なんて言っていられませんよ」

「そうか?」


 言っていることに納得しかねるが、店の主がそう言うなら厚意に甘えておこう。

 それに、彼の服装は素人目に見てもお金に困っているようには思えない。関係無いが育ちも良さそうだ。

 収支マイナスでもやっていけるだけの貯蓄があるのだろう、だがやっぱりそんな店に何度も来るのは気が引ける、とか色々考えつつ俺は店を出た。


「ありがとうございました。またお越し下さい」


 どこでも聞くような定型文のはずなのに、この言葉にこれほどまでの罪悪感を感じたことがあっただろうか。せめて原価で売るようにして欲しい。

 店を後にして通りへ出ると、空気はいくらか涼しくなっていた。それでも暑い。

 言えばその場で着替えぐらいさせてくれただろうと、また若い店主の微笑む顔が浮かんだ。


「早く帰ろう……」


 蝉の声をBGMに、早足で家に向かう。

 帰ったら早速夏服を着てみようか。いや、鏡には映らないのだから意味が無い。まずは風呂だ。汗で厚手の服が張り付いて気持ち悪い。その後は、全裸でもいいか。家に誰か来ることも無いし、これから外に出る予定も無い。あとは飯食って寝よう。

 考えているうちにアパートに着いてしまった。

 周囲に人の気配が無いことを確認すると、ゆっくり音を立てないように一段ずつ階段を上る。階段自体は大人二人がすれ違っても触れない程度の幅があるので、何か起こる心配はほとんど無い。とはいえ注意しておくに越したことは無いだろう。

 しかし、あと一段という所で悲劇は起こった。


「あれ、日暮さん?」

「!?」


 背後から突然名前を呼ばれ、踏み出していた足が勢いよく地面に着く。

 金属製の階段がグワンと大きな音を鳴らして、俺は動きを止めた。

 この暑い中でやけに冷えた汗が背中を伝う。

 幸い、誰も部屋から出てくることはなかった。

 俺はひとまず階段を上り切ると、声のあった方へゆっくりと振り向いてその先を睨みつける。そこには、目の前で手を合わせて申し訳なさそうにこちらを見上げる私服姿の愛奈がいた。

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