第5話 透明人間と遭う彼女

外は既に日が落ちて暗くなっているが、彼女はまだ家に居座っている。

 しばらくトイレに籠ったおかげで俺の腹も随分良くなった。

愛奈には芽のことを伝えて許可を取り、仕方なく残ったカレーを危険物として廃棄処理することにした。

 味はさておいても、何か食べてすぐに動くのは女子高生とて辛いようだ。

弁当が空でも人の席に座り続けるのはそういうことか、と過去に折り合いがついた。


「なんかヒマだし、名前呼ぶ練習しとく?」

「別にいらない」


 人の名前というのは案外呼ばないものだ。

大抵はぐれた時とか、家族でも非常時ぐらいしか呼ぶ機会が無い。


「でも、日暮さん絶対またお前って言うじゃん」

「……」


 そう言われると反論できない。

無言を返した俺に愛奈は嗜虐的な笑みを浮かべる。


「てかさ、恥ずかしいだけなんじゃないの?」


 彼女はニヤニヤしながら俺を煽る。どうやら自分の方に分があると思っているらしい。

箸のことといい、さっきの今でどこからこの自信が湧いてくるのか。

 別にやましいことをするつもりはない。

が、このあたりで上下関係をはっきりさせておくに越したことはない。一度わからせるか。

別に鳴るわけでは無い首を左右に捻る。


「なら、照れた方が負けだな」

「うん。じゃあ、日暮さん」


 念のために準備として、名前を呼ぶ以外はできないように机を間に挟む。

しっかりと相手の目を見つめながら、普通のテンションで、


「愛奈」

「日暮さん」


 先ほどよりも少しトーンを落として、


「愛奈」

「ひ、日暮さん?」


 語尾を上げて呼びかけるように、


「愛奈?」

「くっ……透さん」


 不意を突かれてギョッとするが、その間も上手く使って限界まで優しい声で、


「……………愛奈」


 囁くように言うと、愛奈は初めて目を逸らす。しかし彼女の方も負けたくないという強い気持ちからか、もう一度俺と目を合わせて口を震わせた。


「と……、やっぱ無理ぃ!」

「俺の勝ちだな」


 顔を真っ赤にして机に突っ伏した愛奈に、平静を装いつつ勝ちを宣言する。

俺も愛奈もよく耐えた方だと思う。

おそらくだが、あのまま名前呼びされていたら俺もどうなっていたかわからない。

愛奈がこちらを見ないのをいいことに少し顔を背け、自分の頬に軽く触れる。

手が冷たいなあ……。

それからお互いに体の熱を逃がしていると、ふいにスマートフォンが震えた。

机に置いてあったために愛奈はビクッと頭をもたげて、俺もすぐにスマホを取り上げて画面を確認する。そして出てきた名前に指が反応して着信を切る。ふう、最近は特に多い。

スマホを置いて息をつく俺に愛奈は首を傾げる。


「出ないの?」

「……迷惑電話だ」

「何、その間」


 放っておけ、と返すと愛奈は一度目を細める。

 これが世に言う“ジト目”というものか。

さすがに露骨過ぎたのかもしれない、と、少し後悔していると愛奈が立ち上がった。


「もう帰る」


 愛奈は拗ねたように言いながら、スクールバッグを手に取った。

 それを見て俺も立ち上がる。


「送って行こう」


 こんな時間に女子高生を一人で外に出すわけにはいかない。ましてや愛奈の見た目はよく目立つ。

本人に面と向かって言うことはできないが、狙われやすそうに見える。


「いいよ、遠いし」

「だからこそだろう」

それに、

「忘れているかもしれないが、俺の姿はお前にしか見えていない」


 送る先が実家だとしても、二十代半ばのニート男が近くにいるのがバレることは絶対にない。彼女の身を守ることもできる。

 はたしてその意図は伝わっただろうか。


「じゃあ、お願いするね」


 控えめな返事を聞くと、彼女の後に続いて外に出た。

夜風も相まって、思っていたよりも肌寒い。

 戸締りを確認して、愛奈に並んで歩きだす。誰かと付き合った経験は無くとも、歩幅を合わせることに関しては、熟練の兄スキルと陰キャスキルが役に立つ。

 薄暗い夜道で、車の通りは少ない。

反対側の歩道を時折酔っ払いやカップルが通る。

二人組の大学生らしい人影が愛奈の姿を横目で追って通り過ぎる。

車道側を歩く俺と、その内側を歩く愛奈は手が触れないぐらいの距離感を保ち続けた。

 しばらく歩くと、愛奈が周りを気にするように小さく呟いた。


「目の前のあれがアタシの家。もう見えたしこの辺でいいよ」


 愛奈が見ている先にあったのは、近隣でも有名な超高層マンションだった。


「わかった。気をつけろよ」


 そう答えて、少しだけ振り向く彼女を見送る。

彼女がギャルを装っている理由も、俺の家を逃げ場にする理由も、なんとなくわかるような気がする。親が金持ちだと苦労も多いだろう。バイトをしているのも反発かもしれない。

それはそれとして。


「追いかけるか」


 愛奈の明るい髪色は暗い中でも少ない光を反射してよく見える。

距離は開いたが、まだ追える。

 歩幅を広げ、回転を徐々に速くしていく。

 暗い時の路地は危ない。そんな事は誰だって知っている。

だが夜道を歩くときにはもう一つ気を付けなければならない場所がある。

 少し早足で愛奈の背中を追う。既にマンションの前まで来ている彼女の後ろ姿に周囲を警戒する様子は読み取ることができない。これだから危険なのである。

 柱の裏から現れた人影は、安堵し切った彼女の背後で大きく腕を広げた。もしも奇跡的に振り向き、それに気づいたとしても、もう遅い。というのが本来の一般的なパターンで、


「だから気をつけろと言っただろう。愛奈?」


 全体的に太めのおっさんの両腕を背後からガッチリ掴み、怯え顔の彼女をたしなめる。

おっさんの方はというと、頑張って後ろを見るも誰もいないという状況に目を白黒させている。

 ところでこの体制、自転車のカマキリハンドルみたいだな。


「いっ!?」


 少し腕を内側に引き寄せると、おっさんの顔は苦痛に歪む。

肉がついている分、腕の可動域が狭いんだなあ、と他人事のように思って、また腕を内に寄せる。


「愛奈、管理人呼んで来い」

「う、うん。わかった!」


 走っていく愛奈を見送る。こういう時は管理人を頼るのが一番だ。


「悪いな、おっさん。あいつが見てなくても俺は見てたんだよ」


 歩いている間、愛奈を狙う視線はずっと付いてきていた。

愛奈の視界からは外れていたようだが、俺の目は意識できなかったらしい。それはそうか。

 途中で姿を消したので、どこへ消えたかと思えば案の定だ。

数ある住宅の中でこのマンションを選択したのは年季か、センスか。


「……とりあえず、抵抗やめないか?」


実際、俺にも余裕が無い。おっさんに力負けすることはないが、この状況を誰かに見られると愛奈に迷惑がかかってしまう可能性が高い。

どこかに縄でも落ちていないかと辺りを見回す。もちろん、落ちているわけがない。

小さく息を吐き、ひとまずエントランスからは離れようとしたがおっさんの足腰が予想以上に強い。


「おっ、このっ……」


 なにか喚いているが、大して聞き取ることもできない。

お互いみっともない体制で引っ張り合う中、ついに目の前のドアが開いた。

まずいと思ったのも束の間、そこに立っていたのは息切れしている愛奈で。

無理やりに口角を上げ、差し出された右手には輪っか状の物が。


「はあっ、はあっ……。結束バンド、使うやろ?」

「……ナイスだ」


 息遣いを荒くする制服姿の少女からはいつも以上の色気が溢れ出していて思わず心からの本音が、違うんだそうじゃない。

とりあえず口には出せないが……、方言とか肌とか出てるぞ、しまっとけ。


   ***


 その後、両手の親指を結束バンドで縛られた男が捕まり、愛奈の安全は守られた。

説教する元気も無かったのでその場で愛奈と別れて、現在地はボロアパートの一室だ。

 どうやら男は再犯だったらしい。それでも痴漢というのは記録が残らない限り現行犯でないと確実に捕まえられないから怖い。愛奈自身も、ギャルっぽい見た目と恵まれた容姿を自覚して常に気を付ける必要がある。

そういえば、どうしてあの場ですぐに結束バンドが出てきたのだろう。今になって考えてみると少し怖い。

 一日の、特に午後の時間密度が人生で一番と言っても過言ではないくらい濃かった。それはきっと、図らずも自分以外の人間に深く関わってしまったからだろう。

 根本的なところで彼女は強がりだ。

痴漢に遭いそうになって涙を一粒たりとも流さなかったが、目を潤ませていたのを俺は知っている。平気なフリをして戻ってきたときも、指はずっと震えていた。それに、あのマンションに彼女の家族はおそらく住んでいない。仲が悪かったとしても、娘の危機に飛んでこない親がいるだろうか。もしいるのなら……クソくらえだ。

 彼女はまだ子どもで、寄りかかる何かを必要としている。大人になるために足りない物を誰かが与えなければならない。

 俺は透明で、彼女には俺が見えて。なぜ俺が選ばれたのかはわからない。だが、ひとまずはその役割を全うしようと思う。

 今日は本当に疲れた。残っている気力で押し入れから敷布団だけを雑に取り出し、そのままそこに倒れ込む。

 眠りの海に沈みながら、自分の余裕の無さを可笑しく思う。

食材の買い出しぐらいは頼むべきだったな。

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