第4話 透明人間とカレーを作る彼女
「やっほ」
「……おう」
先日の記憶は薄れるどころか、夢で見るぐらいには、はっきりと覚えている。
しかし彼女はあの日以降もこうして度々やってきている。
この日は毎度の座布団に座ったものの、いつものスマートフォンは触らずに対面にいる俺をジッと見つめていた。
「何か付いているのか?」
「そうじゃないけど。日暮さん、痩せてるよね?」
お互いに瞬きをしないせいでドライアイになるのではと心配して声を掛けてみると、彼女の方からはそんな言葉が飛んできた。
「そうか?」
半疑問で返してはいるが、実際に痩せてしまっていると自分でも思う。
節約生活はそろそろ板に付いてきたが、それに起因する空腹感が起きている間ずっと付きまとっている。加えてインスタント食品にも飽きてしまっているのが現状だ。
「絶対ヤバいよその顔。パッと見、体調悪そう」
「お前しか見ないだろう」
「それはそうなんだけど。でも、さすがに死んじゃったらダメっしょ?」
ごもっともである。返す言葉も無い。むしろ、剥がされたギャルの仮面を改めて付け直して俺と接している彼女のメンタリティに言葉が出ない。
驚愕する俺の心中も知らずに、彼女はどこか嬉しそうにスクールバッグからスーパーのレジ袋を取り出す。
「だからさ、アタシがなんか作ってあげようと思って」
有料のレジ袋を買うとは、関西の血を忘れているのでは。
ゴロゴロと出てきたのはじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、そして、
「……カレーか」
「そ、カレー」
見慣れた薄い直方体の箱を見ると、甘口と書いてある。
おそらくだが、彼女はそこそこ気が回せるタイプなのだろう。甘口を選んで買ってきたのも俺が辛口を食べられない場合が加味されている。
「キッチンあるんだから、使わないとね」
材料を袋に戻すと、今度は自前のエプロンを取り出してそれをたどたどしく身に着け始める。髪も後ろで一つに縛り、台所に向かう彼女の足取りは軽い。
台所の道具は使っていないなりに整理している。
カレー作りに使う道具であれば、大きめの鍋はコンロに出したままで、包丁とまな板は見える所に立っているはず。ただ、道具の問題は無いとはいえ、ウチは普通のガスコンロ。完全に放置しているわけにもいかない。
というわけで、俺は台所の方が見える位置に座って読書を始めることにした。
その前に念のため、確認がてら一言だけ声をかけておく。
「料理は普段からするのか?」
「……まあ、それなりに?」
「…………」
「と、とにかく! 日暮さんは座って待ってなよ。ヤバ、目ェ痛った。玉ねぎヤバ」
手元が狂ったとかで火事になるのだけは本当にやめて欲しい。
間違いなく俺は死んだことになるからな。
……うーむ、透明であるが故のデメリットをまた一つ見つけてしまった。
しかし、この状況はかなり人から羨ましがられるのではないだろうか。
忙しなく揺れる彼女のポニーテールを見ていると、そんなことを考えてしまう。
制服の上からエプロンを身に着けたギャル(?)が自分のために何かしら料理を作ってくれている。
考えられるのは、悪いパターンなら援助交際、教師と生徒。良いパターンなら従姉妹とか幼馴染か。どちらにせよ年齢的に法の匂いがプンプンする。
こういう考えはしないでおくのが吉だな。何をしても俺は当事者になってしまう。
彼女から視線を外して、俺は手元の文庫本を読み進めることにした。
数十分後、読んでいた短編集に幼妻と社会人の話があって思わず吹き出しそうになったところで、数多の人類を幸せにする香りが部屋に漂い始めた。
「こんなもんかな?」
鍋をゆっくりとかき混ぜる背中から、呟く声が聞こえて俺は立ち上がる。
彼女の後ろから鍋の中を覗き込むと、漫画やアニメで見るようなおぞましい何かは生成されておらず、見慣れた色のトロリとした汁物が出来上がっていた。
ほっ、と安堵の息を漏らすと、それに気づいて彼女が少し後ろを振り返った。
「わっ、日暮さん!? ……匂いに釣られちゃった?」
驚いたように声を上げ、上目使いで見つめてくる彼女の悪戯な笑顔に、俺は一瞬言葉を失った。
「まあ、そんなところだ。食器は俺が出すから座っていてくれ」
「はーい」
間延びした返事で台所を出ていく彼女を見送る。
うん……女性の後ろに立つのはやめよう。
身長差もあってか、背後からのアングルは色々とクるものがあるという学びを得た。
というのはさておき、足元の棚から同じ柄の皿を二枚取り出す。
これは一人暮らしを始めた時に親から送られたものだ。いつか“いい人”が見つかった時に一緒に使えと言われていたが、完全に来客用になってしまっている。
“いい人”か。
先ほどの光景が脳裏をよぎり、それをかき消すように首を横に振る。
米はインスタントのものを二人分レンチンし、カレーと一緒に盛り付ければ完成だ。
二人分の皿を運ぶのは何か月ぶりだろうか。
食材と生産者、そして目の前の少女に感謝の意を込めて手を合わせる。
「いただきます」
「はいどーぞ」
ニコニコしている彼女に促されるまま、米とカレーを同時に口に運ぶ。まだ彼女が口を着けないのは、おそらく俺の感想を求めているからだろう。
そもそもの問題は一つあったのだが、実際に食べてみると次から次に問題が出てくる。
彼女はニコニコしているが、その表情の端には少し不安の色が見え隠れしている。
一口目を飲み込むと、スプーンを置いて彼女に向き直った。
「カレー、だな」
カレーとして形になっていることは褒めるべきだ。
彼女は少しだけ表情を明るくして、安堵の息を吐いた。
「ただ、肉が入っていないのが致命的だ」
「……………………あ」
たっぷり時間を使った末、彼女は間抜けな声を漏らした。
「待て、本当に今の今まで忘れていたのか?」
あくまでも声は優しく、落ち着いて訊くと、彼女はプルプル震えながら無言で首肯を返した。
ならば、仕方が無い。
「野菜カレー、だな」
「えーと、そう! 野菜カレー!」
俺の言葉に乗っかる形で、彼女の自尊心はなんとなく守られた。多分。
人参の皮を剥くだとか、ジャガイモの芽は奥まできちんと取るだとかはまた今度言うことに……芽の方は早めに言わないと被害者が出そうだな。
しかし、本当に野菜ばかりでは栄養が偏ってしまう。
俺はいいかもしれないが、高校生の体にとってはあまり良くない。
俺は少し急いで食べ終え、一旦流しに食器を置くと、棚から長方形のフライパンを取り出す。そこに軽く油をひいて火にかけて少し温め、その間に冷蔵庫から取り出した卵二つをボウルに割ってかき混ぜる。そこに少量の出汁の素を足すのがポイントだ。
あとは出汁入りの卵を三回ぐらいに分けてフライパンに流し入れ、それを巻いていくと出汁巻き玉子の完成。
数切れに分けて皿に盛ると、箸と一緒に差し出す。
「栄養が偏っているからな、好きな分食べろ」
「料理できたんだ……」
「逆にお前は料理できなかったのか」
「きょっ、今日から練習するし……」
頬を膨らませてぶつくさ言いつつも、彼女は目の前で湯気を立てる出汁巻き玉子に箸を入れ、一切れ取って口に運ぶ。
「うっま」
はふはふしながら信じられないという目で見つめてくる。
視線は俺に向いているが、箸はテンポ良く皿と口とを行ったり来たりしている。
関西では出汁巻きがより一般的だ。砂糖入りの卵焼きなんかは口に合わない人が多い。
狙い通りではあるのだが、ここまで喜んでもらえるとは。
そうこうしている内に、皿の上の出汁巻き玉子はラスト一切れ。彼女は遠慮なくそれを箸で取った。だがそれを俺の口元に運ぶ。
「遠慮するなよ」
やんわりと拒否すると、彼女は強引にその一切れを押し付けてくる。
「日暮さんも栄養足りてないでしょ」
言われてしまえばその通りだ。
インスタント麺や非常食で生活していて必要な栄養が十分に摂れるはずがない。
ここは厚意に甘えておくべきか。
「じゃあ頂こう」
促されるまま食いつくと、久しぶりに食べる出汁と卵の味が口に広がる。
シンプルな出汁巻き玉子だが、目分量の精度が落ちていない事に安心した。
誰かに食べさせてもらうのなんて何年振りだろうか。なんとなく餌付けされているような気分になるのは全人類の共通認識だと思ってもいいのだろうか。
それはともかく、
「おい、赤くなるな」
「だ、だって」
「何を意識しているんだ。それに、どちらかと言えば照れるのは俺の役目だろう」
「じゃあ照れてよ!」
「お前の顔見たら冷めた」
「なんそれ!?」
本来なら『俺が照れながら頑張って食べる→味わからん』が正規の道筋なのだろう。しかし、彼女の方が先に照れてくれたために出汁と卵のマリアージュをしっかりと味わうことができた。
「てかお前って言わないでよ!」
「気を悪くしたなら謝る」
そう言って少し机から体を離して土下座するような素振りを見せると、彼女は「謝らなくていいから!」と必死に俺を制止した。
「でも、お前って言うのはやめてね」
「わかった。これからはちゃんとする」
彼女はそれで気を良くしたようで、食器を洗いに行った。
基本的に彼女は“良い子”なのだろう。
努めてギャルを装っているが、本人も気づかないうちに「良い子」な部分が露呈し始めている。
しかし、彼女はどうしてそうもギャルを装おうとするのだろうか。
確かに、俺だって隠し事は少なからずある。
「日暮さーん。残りのカレーだけど……、って大丈夫!?」
「ああ、ちょっと腹が痛いぐらいだから……」
例えば、さっきのジャガイモの芽で腹を壊していることとか。
同じものを食べたのに、なんでお前は元気なんだ。
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