革命砦の料理人

羽鳥(眞城白歌)

[0]喪失からの誓い


 早朝の森は梢からくだが朝露に乱反射して、幻想郷へ迷い込んだように錯覚する。自由奔放に伸びた下草を足でかきわけ埋もれた道を進めば、裾も靴も濡れて足先がだんだんと冷えてゆく。

 見慣れぬ来訪者を警戒したのか、樹上の小鳥がさえずって飛び立った。枝の上で、葉の陰で、小さな生き物たちが息づいているのを感じる。

 深く広大な森は生命に満ちあふれていて、油断すれば、武器の一つも持たない自分など簡単に呑み込まれてしまうだろう。


 世界が色をとり戻す薄明はくめいの時刻から歩き続け、どれほどの時間が経ったのか。

 迷いの森とも呼ばれるダグラ森には精霊が多く住んでいる。かれらがしめす方角へひたすら歩き続けているが、目的地へ近づいているのかもわからない。

 精霊は嘘をつかないという――、森歩きの技能を持たない一介の料理人が頼れるものといえば、その通説以外に何もなかった。


 頭上に枝垂しだれる木々の葉から落ちたしずくが、金赤色の前髪を濡らし額を伝って彼の目に入る。シャツの袖でまとめてぬぐえば、袖口もしっとりと濡れてゆく。地域的にも季節的にも寒くはないが、森の中特有の冷涼さは濡れた体から温度を奪っていきそうだ。

 ため息をつき、足を止める。思えば丸一日以上、水以外を口にしていない。


 今さら生に未練などなかった。

 樹海に呑み込まれ、命尽きて朽ち果てるとして、悲しむ者はもういない。


 愛するひとも、愛そうとしていたひとも、すべてをうしなった。胸を穿うがつ虚無感と悲しみが癒えることは、きっと一生涯ないだろう。

 生きる意味と同じほど大切な存在をまとめて奪われ、それでも後を追わずに生き続けているのは、願いを託されたからだ。腕の中で息絶えた妻が最期に囁いた言葉を、叶えようと誓ったからだ。


 ――来世こそ、平和で優しい世界に生きたい。


 この大地に生きる者はみな、同じ魂を抱いて流転るてんする。死したのちまで記憶を保持することはないが、同じ大地の上に人として再び産まれ、生きてゆく。世界が定めたことわりの輪から、誰一人として外れることはないのだ。

 であれば、妻と娘もいずれこの大地で再び生きるだろう。転生前の記憶――ともに過ごした日々も、交わした愛情も、何一つおぼえてはいないだろうけれど、構わなかった。


 二人がまっさらな命で新たな人生を始めたときには、こんな悲しみが降りかかることのないように。

 戦乱に終止符を、世界に平穏と優しさを。


 彼は一介の料理人で、政治や戦い、種族間に横たわる軋轢あつれきに対しても、できることはほとんどないけれど。奪われた痛みを共有した者たちが揃って勧めてくれたのは、迷い森にあるという革命軍の拠点だった。

 勧められるまま森へ向かい、空腹も脚の痛みも忘れ、精霊たちの示唆しさに従って歩き続けてきた。深い森の中ではわかりにくいが、時刻はおおよそ朝食時だろうか。虚無と絶望と悲しみで胸がいっぱいになっていても、腹は減るらしい。

 自嘲的な気分になりながら、前髪の露を払って辺りを見回す。そして、息を飲んだ。


 不意に、視界が開けたのだ。

 密集して群立する木々の切れ目に気づかなかった、というわけではない。明らかに魔法的な作用で景色が揺らぎ、幕が開くように眼前が変化する。人工的にひらかれた場所に、薄灰色の巨大な塔が建っていた。

 ふらつきそうになる脚を叱咤しったし、足を速めて近づく。塔を囲むようしつらえられた柵の前に人がいた。草を踏みつける足音に気がついたのか、その人物がこちらを振り返る。


 遠目からでもよく鍛えられているとわかる、がっしりした体つきの若者だった。日焼けよりも濃く見える肌の色は珍しく、つややかな黒髪は首の後ろで一本に括られている。長い前髪に右目が隠れていたが、露出している左目は深い紫色だった。

 荷物も武器も持たず露に濡れそぼった姿で現れた不審者に、彼は驚いたのだろう。表情は乏しいものの、大きく目を見開いた姿にそう思った。


 戦災で家族と故郷を失ったダズリー・ノルラントがこのとき出会ったのは、ローゼイン王家の後胤こういんヴェルク・ザレイアだ。


 やがて世界に変動を導く、のちの建国王である。


 

 

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