不器用なカマキリは私の前で倒れました。

種山丹佳

不器用なカマキリは私の前で倒れました。

 朧げな視界が映したのは、私たちとは違う世界にいる存在だった。私より何十倍も大きな体躯をもつカマキリが、そこにはいた。身体のそこら中に傷が目立ち、右腕をも失っている。私たちアリは普段、彼らに狙われることはない。だから、見向きもされないだろうと思っていた。それなのに、今回は違うみたいだ。横を通り過ぎていこうと思っただけの私を引き留めて、じっとその楕円の双眸を傾けてくる。頻りに口元から涎が垂れていた。私を食べたくて食べたくて仕方がないといった具合に。


「何かご用でしょうか?」


 特にこのカマキリとは面識があったという記憶はない。初対面で見つめられる時間は疾うに過ぎていて、もう恐怖という感情がひっきりなしに私の胸を搔き乱していた。当のカマキリは何も答えず、一定間隔で息を漏れ出させるだけだった。話さないのか、話せないのか。どちらにせよ、薄気味悪いことこの上ないものだ。私はその場から逃げることにした。当初の目的の通り、横を通り過ぎて巣に戻ろうとする。カマキリは何もしてこなかった。私の歩いていく姿をただ茫然と眺めているだけだった。気にしても仕方がない。私は無視して進みだした。が、次の瞬間。カマキリは、地面に音を立てて崩れ落ちた。私はもう一度カマキリを見た。


✕✕✕


 私は未だ、カマキリの横にいた。カマキリには倒れてもなお息があるようで、食べ物さえ与えれば生きてくれるような気がしたのだ。私は最初から気にはなっていた。こんなアリ風情に何の興味を示してくれていたのだろうと。食べるにしても私じゃ物足りないと感じる筈だ。それ程までにお腹が空いていたのだとしたら、私にはどうしたって可哀想という感情が沸き起こってしまう。こうして足を止め、カマキリの看病を始めたのも、もはや運命的なものだと言えた。このカマキリと出逢ったから、必然的に私はここに残ることになったのだ。


 知らず私は、このカマキリに興味をもっていた。もうここに滞在し続けて一日は経ち、カマキリも大分と回復してきたように思う。でも、せっかくこうして共に過ごす時間ができたのだ。少しくらいお互いを知ってもいいんじゃないだろうか。そう思った私は、カマキリに質問してみた。


「貴方、名前は何というのですか?」

「名前、か。俺の名前はシン。お前は?」

「私は、アオバ。でも、本当に良かったです。シンさんを助けることができて」

「いやいや、それはこちらこそだぜ。アオバは、巣に戻らなくて大丈夫なのか?」

「あ、えっと……そう言えば、シンさんに逢ってから巣には戻れていませんね。……でも、大丈夫ですよ! 私の心配なんてせずにどうぞ横になっていて下さい」


 シンさんは自分のことより私のことを優先に考えてきた。正直予想だにしていなくて、一瞬なんと返そうか焦りが生まれた。そこを読み取られてしまったのだろう。彼は楕円の双眸をより吊り上げて、私を睨みつけてきた。


「俺が看病してもらっているんだ。アオバはアオバのコミュニティーで生きているんだから、そっちを大事にしろよ」

「シンさんにもコミュニティーがあるんじゃないですか?」

「お、俺にコミュニティーを語るな! ……俺の居場所はもうそこにはないのだから」


 突き放された。初めての拒絶だった。看病中は私が手取り足取り世話することに、全て受容の構えを見せていた。だから、落差で首を絞められているかのような辛苦を覚えた。


「ごめんなさい。私……」

「いや、アオバの行動は間違っている訳ではない。俺も強く言い過ぎた節があった。事実、俺は命を救われているんだ。だから、その――」


 大粒の汗を掻きながら、顔を右に左に動かし続ける。動揺がわかりやすかった。ちょっと口元が緩みそうになる。どこかコミカルで、悪い虫ではないと理解できたから。


「おい、何笑ってるんだ! 俺の顔に何か付いてるか?」

「いいえ、何も! でも、シンさん面白いです!」

「それってどういう?」

「知りません! ちなみに、『だから』の後は何て言おうとしたんですか?」

「うるせぇ! 今日はもう寝る!」


 反応が可愛かった。未だ健在の鋭い鎌足は怖いけれど、その風貌を忘れさせるほど、焦った姿が愛おしかった。もっと知りたい。この日を境に、私のシンさんへの興味は加速していった。


 ――日々は驚くほどに速く過ぎていった。シンさんは多くを語らなかった。交わす言葉は少ないけれど、そこには確かな熱があった。彼と過ごした時間は、今まで生きてきた生涯の中で一番濃密な時間だった。


 私はカマキリのことを知らなかった。だから、何度も何度もカマキリと接する上でのミスを犯して、シンさんに怒られてしまった。語らない彼を知っていける。彼の感情を見ることができる。悪気はあったけど、どこか惚気もあった。

 しばらくの間は、私が餌取りをしてきていた。カマキリの食事を事前に聞いた時、私たちアリと近しいところがあることを知った。カマキリの主食はコオロギやバッタといった昆虫らしい。私たちもよく死骸を集めてきては食べていたので、いつもと変わらない作業で何とかなって良かった。

 ある日、私たちがとりあえずの住みかとした大きな草の下に餌となる死骸を運んでくると、シンさんが眠っていることに気が付いた。起こさないように慎重に近付いて、彼の横に置こうとした時、突然彼が目を覚ました。


「ぎゃああああああああああああああ!」


 慌てて謝ろうと距離を取るも、その声に驚かされる。ビックリしたのは、私ではなくシンさんの方だった。呆気にとられ、目をパチクリさせる。シンさんは言うまでもなくキレていた。


「おい、俺の近くに物を近付けないでくれ! 俺たちは他の虫と違って、物が立体的に見えるんだ。だから、必要以上に近付けられれば、他の虫よりビックリしちまうんだ」

「そう、だったんですね……。私、知れて嬉しいです!」

「はぁ?」


 失言だった。これでは煽り文句と捉えられても仕方がないじゃないか。怒りに触れてもしょうがない。立場を弁えろ、私。


「あ、いえ、私が悪いことをしてしまったのにおかしいですよね。すみません」

「お前って変だよな。コミュニティーでもその調子だったのか?」

「あ、いえ、えっとー。私のコミュニティーって個性を必要としてないんです。私たち働きアリは、女王アリの駒でしかないっていうか……」

「なんかすまん。俺も考えなしだった」

「いえいえ、興味をもって頂けて恐悦至極です! 私こそ、こんな重い話、嫌でしたよね」

「変って言ったのは、なんかその、照れ隠しっつーか。……お前、いやアオバって、面白いよな」

「えっ」

「いや、何でもねぇよ! 早く餌食べようぜ」

「あ、はい。そうしましょうか! 今日も大量ですよ」

「そいつは嬉しいね。食べきれるかな」


 思考がどこか浮ついていた。呼吸が追い付かず、シンさんを直視できなかった。これは何という感情だろう。私は群れの中で褒められたことがない。そもそもあのコミュニティーにおいて、褒められている働きアリなど、誰もいなかった。だから、初めてをもらった気がして。だから、私を認めてもらえた気がして。シンさん、私、貴方に――。


 これもまた、別のある日。この日は近付き過ぎないように気を付けながら住みかに戻ったから、文句は言われなかった。ただ今度は別の点で難癖を付けられることになった。例の如く、ここまで引きずってきた餌には小さな手が置かれていた。


「アオバ、前々から思ってたんだが、なんでこんなに小さくして、餌を持ってくるんだ? 俺の身体じゃ食べ応えがなくてしょうがないんだ」

「す、すみません! この大きさが一番運びやすくて! もっと大きめにして運ぶこともできますから、私を信じて待っていて下さい!」

「いや、待てよ、アオバ」

「俺も運んできてもらっている身。そんなに無茶は言えねぇよ。初めてだった。こんな大きさの虫を見るのは。でも、食ってみたらほんとに虫で、いっつも食べ過ぎちまう俺にとって意外と理に適ってたんだ」

「いいですよ。そんなウソなんか吐かなくて」

「あぁ、ウソだ。どうだ、シンさん優しいって思ったか?」


 まさかこんなことをされるとは思わなかった。私がこれまで尽くしてきたのは何だったのか。一瞬でも感動した、この私の気持ちを返してほしい。そうだ。私も仕返しをしよう。同じ手札を切るのなら、フェアな戦いと言えるだろう。


「……そんな冗談を言う元気が出たなら、もう帰ってもいいですか?」

「帰る? それはまた、早い決断だな。いいのか、俺に未練とか……」

「一切ないです。ただの腐れ縁みたいなものなので。……じゃあ、さようなら」


 私が運んできた餌をその場に落とし、立ち去ろうとすると、シンさんはいきなりその落としたばかりの餌を口いっぱいに頬張った。一気に食べたせいか、ゴホゴホ咽せ始める。一瞬ためらったものの、やはり助けたくなってしまった。小さな身体を一生懸命背中に押し当てる。上下に動くことで、若干ながら擦ってあげた。その甲斐もあり何とか飲み込んだシンさんは、私に顔を近付けて、コクリと首を下ろした。


「俺は交尾中に右腕を失い、身体のバランスが保てなくなった。足も半分以上食べられてしまって、立つのもかなりの苦労を要する。俺は一人じゃ生きられない。俺にはお前が、アオバが必要だ。からかってごめん。俺のこと、もっと見てほしくて」

「…………」

「今、おかしなこと言ってるって自覚はある。でも、今日まで過ごしてみて、俺たちもっと仲良くなれると思った。こんなところで『さようなら』なんて嫌だ! もっともっと面白いアオバを見ていたいから、だからお願いだ。アオバ、俺と一緒にいてくれないか?」


 私はこれまで、一度もオスの虫からこんなことを言われたことがなかった。私なんかが、シンさんと一緒になっていいのだろうか。私は働きアリ。一生女王アリに尽くすために生まれた身。だから、交尾なんてできないのに。そもそもアリとカマキリに、子は産めないのに。


「私、ずっと貴方に対する感情がわからなかったんです。胸はずっと高鳴っていて、シンさんと話していると、いつも楽しくて。自然と笑顔になってしまう。でも今、何かわかった気がします。きっと貴方と私が抱いている感情は同じものなんですね」

「…………」

「私も、シンさんと一緒にいたいです! もっともっと貴方のことが知りたいんです。こんな私でも許してくれますか?」

「……もちろんだ! こちらこそありがとう、俺を受け入れてくれて!」


 シンさんが私の方に近寄ろうとしてきた。不自由な身体が小刻みに揺れながら、必死に私をその細い胸に抱こうとしている。私は彼の元へと駆け寄っていった。そして、抱擁をした瞬間、私の身体からは内蔵と体液が混じった薄緑の液体が出てきた。彼の鎌足が私の身体を貫いたのだ。確かな痛みが全身に沁みていく。彼の顔が苦虫を嚙み潰したように歪んでいる。きっとわかっていた。だけど、思いは止められなかっただろう。本当にバカなことをしたものだ。そして、それは私も同じだった。意識が遠のいていく。私は死んでしまうのだろうか。でも、これで死ぬなら幸せだ。私を許してくれた存在の温もりを感じながら死ねるのだから――。


✕✕✕


 私は、目の前に運ばれてきた残骸を見て、想像を働かせる。多分これは、数時間前に私の前で倒れたカマキリの死骸だろう。あの後、誰にも看取られずに死んでいったのだ。自然界は残酷で、それでも美しい。私たちはこのカマキリのおかげで生き延びることができる。女王アリもさぞ喜んでくれるだろう。


「おい、そこの働きアリ。死体なんか見てないで外へ行きな! 女王はまだまだ腹ペコよ!」

「わかりました。すぐ行きます」


 あの時助けていたら、私がこうなっていたかもしれない。私は密かにそんなことを思いながら、慌ただしく巣穴から出ていくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不器用なカマキリは私の前で倒れました。 種山丹佳 @kusayama_nika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ