銀月の聖遺物狩り〜故郷が燃やされたのでガサツなお姉さんと旅に出ました〜

ベニサンゴ

第1話「月下の聖女」

 灰の匂いが一面に立ち込めていた。燃え盛る炎、倒壊する柱、悲鳴をあげる羊たち。強く拍動する心臓を抑え、息を殺す。脳裏に焼き付いた惨状を思い出さないように、きつく唇を噛み締める。


「――ッ!」


 薄い板塀のすぐ後ろで、足音がした。思わず飛び上がりそうになるのを必死に堪えて、神様に祈る。どうか、災厄が去りますように。追手が諦めて遠くへ離れてくれますように。もしくは、神の使徒が現れて、彼を討ち取ってくれますように。

 焦げ臭い服の胸元をぎゅっと握り締めて、災禍の主が立ち去ることを願う。


『逃げなさい、ウェル』

『走れ、遠くへ』


 ふたりの声がまだ耳の中で残響している。服の下、首から掛けた聖印に祈る。


「見つケけた」

「ひあっ――!?」


 頭上から降る声。聞き慣れた声。聞き慣れない響き。緑の瞳がこちらを見ている。


「はっ」


 バネのように立ち上がり、一心不乱に逃げる。考える余裕はなかった。背後で彼が笑っている。もはや誰一人いない小さな村を飛び出して、森に駆け込む。後ろから、板塀を蹴壊す音がした。


「どうして――」


 どうしてこんなことになったのか。つい数刻前まで、いつもと何も変わらない平穏な日だったはずなのに。今頃、父さんと母さんと三人で夕食を食べていたはずなのに。

 どうして彼は突然、あんなものに成り果ててしまったのだろう。

 混乱と焦燥の中でパニックを起こし、振り返ってしまった。彼――彼だったモノが僕を見る。真っ直ぐに。人の形をした、肉の中に詰まった、人ではない何かが、嗤っていた。


「に、ニ、逃げ、ニゲナイでおくレよ!」

「ひぁっ……! はぁっ! はぁっ!」


 人の姿をしている。服は泥だらけだけど、天秤の意匠がはっきりと分かる。間違いない。彼はトーマスだ。数ヶ月前、世間から隠れたこの村にふらりと現れた修道士。ここで神父として、僕達に色々な事を教えてくれた優しい男の人。

 彼の栗色だった毛髪はいまや、黄金に燃えていた。両手は白く輝き、足元から絶えず温かい灰を流している。視線は定まらず、呂律は回っていない。彼はもはや、人ではなかった。


「あ、悪魔憑き!」

「チガ、違う、ちがう、ヨォー!」


 思わず悲鳴のような声が口を突いて出る。トーマスの体を乗っ取った悪魔は、悲しそうな声で、楽しげに反論する。

 木々の間を抜けて、落ち葉を蹴り上げながら深い深い闇の中へ駆ける。向こうは月も隠れた闇夜の中で煌々と光り輝いている。彼の手が触れた瞬間、老木が燃え上がる。湿った落ち葉が煙を上げ、繁茂する枝葉が溶けていく。


「はぁっ、はぁっ」


 肺が裂けそうだ。喉が渇ききっていた。それでも懸命に、一心不乱に足を動かし、トーマスから逃げる。もう、あの村に僕の仲間はいない。みんな、彼の炎によって灰と化した。

 優しくて、頼れる彼は、一夜にして消えた。最初に教会が燃えた。駆けつけた大人たちが燃えた。一軒一軒、彼は丁寧に燃やして周り、そして、最後に僕たちの家があった。


「ま待ってヨよヨ」


 声が間近に迫っていた。彼は悠然と歩いているはずなのに、全力疾走している僕に手を伸ばせば届きそうなほど近づいていた。彼の声には愉悦があった。いつでも僕など捕らえられるという余裕だ。彼は、この狩りを楽しんでいる。


「たすっ――誰か――」


 助けてくれる人はもういない。父さんが燃えるのを見た。母さんが灰になり崩れるのを見た。二人の骨も、何も残らなかった。

 喉が締まる。空気が入らない。死と絶望の足音が、ゆっくりと近づいてくる。終焉の影がゆっくりと覆いかぶさる。絶体絶命の中、月が輝いていた。


「はぁ、はぁっ!」


 足が絡れそうになりながら、森を飛び出す。崖のような傾斜を転がり、傷だらけになりながら、這うようにして逃げる。頭上では雲が流れ、淡い月光が降り注ぐ。


「助けて――」


 トーマスに、神様について教えてもらった。

 世界の均衡を守る天秤教の主神、女神セラス。彼女の聖体から分たれた、六柱の使徒たち。使徒を支える司神たち。司神に仕える眷属たち。自然に遍在する精霊たち。魔を祓い、世に秩序を齎す神聖なる存在。

 誰でもいい。なんなら、混沌から生まれた獣でもいい。トーマスだったモノを退けてくれるなら。僕の両親の仇を取ってくれるなら。二人を、村の仲間たちを弔うだけの時間をくれるなら。

 母さんから貰った聖印を握る。熱いのは、焦燥からだろうか。


「誰か、助けて!」


 ただ広い荒蕪に叫ぶ。


「タた助ける助けて助けてあゲるゲル!」


 返ってくるのは絶望の声だけだ。嘲るような声だ。もはや、彼はいつでも僕を燃え盛る炎の中へ誘うことができた。猟犬が兎を追うように、狩猟を楽しんでいる。僕の心が折れて、立ち止まるのを待っている。

 足を止めれば楽になると。灰となれば恐怖は去ると。手をこまねいて待っている。


「誰か――!」


 死にたくはない。

 けれど、助けもない。

 当然だ。周囲に村落などないのだから。むしろ、人の目を避けてこんな山奥に潜んでいたのだから。忌人と呼ばれ、迫害を受けながら、追われるようにしてやってきた。長く辛い旅の果て、ようやく見つけた安住の地だった。

 なぜ。

 なぜこんな不幸が起きるのだろう。トーマスは、他ならぬトーマス自身が、不幸があれば幸福もあると。全ては天秤のように吊り合うと。そう教えてくれたのに。


「あはっ! あハははハハははっ!」


 壊れたように笑う声がする。

 草を蹴散らし、ただ逃げる。至るところに傷ができていた。血が流れていた。痛みはなかった。

 遊びは終わりだ。彼の手が、指先が、爪先が僕に。


「あがガガがガガがあアアアアアッ!?」


 恐怖に耐えかね目を閉じたその時、けたたましい絶叫が耳を劈いた。僕の声じゃない。トーマスの喉を裂く、壮絶な悲鳴だ。何かがおかしいと気がついて、恐る恐る振り返る。


「狼血を追って来たら野生の聖人とは、また珍しいのがいるな」


 月光を浴びて、鮮血を浴びて。彼女がそこに立っていた。黒い大鎌の刃が、トーマスの胸元から生えていた。流れ出る血は燃え盛り、口から銀色の液体が流れ出ている。修道服の下からは、白い灰が流れ出ている。

 彼女は――突然どこからか現れた女の人は、彼と同じ天秤教の意匠を施した服を着ていた。長い赤髪を靡かせ、口元に獰猛な笑みを浮かべている。切長な瞳は、猛禽のようだった。


「誰だ」


 ぐりん、とトーマスの首が真後ろへ向く。骨の捻じ折れる音がして、耳を塞ぎたくなった。首の裂傷から深紅の血を流しながら、トーマスは真顔で、冷静な声で誰何した。


「何って、テメェの同業だよ」


 律儀に答えながら、女は鎌を引き抜いた。返り血が掛かり、白い皮膚を焼いているにもかかわらず、彼女は平然とした顔でトーマスを蹴飛ばす。


「ひっ」

「突っ立ってんな。邪魔だから離れてろ」


 泥のようにこちらへ倒れてくるトーマスに、思わず悲鳴を漏らす。それを聞いて初めて、彼女は僕の存在に気づいたような反応をする。要するに、無粋な闖入者を見るような目をこちらに向ける。

 慌てて後退りして、石に躓いてお尻を強かに打ち付ける。そんな僕の目の前で、トーマスは糸に吊られるような奇妙な動きで立ち上がった。


「まだ半端だな。なりたてか」


 女は独り言のように呟いて、流れるように鎌を振る。トーマスは彼女の方へ向き直り、腕でそれを受ける。そして、音もなく肘から先を失った。

 遅れて、草の上に腕が転がる。


「あっ……!?」


 予見していなかった未来に、トーマスが間の抜けた驚きの声をあげる。彼が顔を上げたその時には、彼女は肉薄していた。


「主よ。均衡を取り成す者よ」


 鎌が弧を描く。トーマスは全身から黄金の炎を噴き上げる。

 女は語りかけるように、優しく、滑らかなに言葉を紡ぐ。それは詠唱だった。祈りを込め、女神セラスに向けて放つ歌だ。


「深き祈りの果て、長き修練の先、その円環に触れた敬虔なる臣僕を赦したまえ」


 両の手首が草原に落ちる。流れでる鮮血が土を焼く。

 トーマスの絶叫が広がる。


「未だ均衡は保たれる。混沌は眠り、神もまた眠る。限りない水平が、何ものにも交わらぬ黄金の線がある」


 長い赤髪が広がる。白い月光が照らす。

 彼女の声は不思議とよく響いた。僕の鼓動を落ち着かせ、全身の緊張をほぐしていく。それに対応するように、トーマスの顔から余裕がなくなり、恐怖が浮かんでいた。悲鳴を上げ、跪き、命乞いをする。けれど、彼女は一切の躊躇いなく、僅かな躊躇もせず、冷淡な顔つきで大鎌を振るう。


「世は安寧の中にある。調和はそこに健在なり。深き海の底で揺蕩う箱の中で、今再び瞼を下ろせ」

「ああっ! ああはああっ! 嫌だ止めてくれ助けてくれ勘弁んんんっ!」

「光の帳を下ろせ。悠久の眠りのなか、安らかな吐息を」

「ああああアアアアア嗚呼アアアアアぁぁァァァっッ!」


 天を裂き、地を揺るがす断末魔だった。喉が裂け、胸が破れるのも構わず、トーマスが絶叫する。肉体という監獄から漏れ出す嗚咽と怨嗟の鳴動が、そこにあった。眼球が割れ、血が流れている。口から泡を吐き、皮膚が裏返る。

 トーマスだったモノは、トーマスだった物へと変わり果てる。赤い肉塊が白く染まり、灰となって崩れ落ちる。風がそれを散らし、修道服と聖印だけが、そこに残った。

 その視線に気がついて、はっと正気にかえる。腰が抜けて、立てない。なんとか顔だけ上に向けて、鎌を担いだ赤髪の彼女に声をかける。


「あ、あのっ! ――た、助けてくれて、ありがとうございます」


 雲が流れ、月光が頭上に降り注ぐ。濃紺の修道服を着た彼女の赤い瞳が、にわかに鋭くなった。


「――へっ?」


 首元に鎌の刃を当てられたのに気がついたのは、流れる血の匂いが妙に濃く感じたからだ。それが自分の血だと分かったのは、その後だ。月光の下、彼女の顔が鮮明になる。その表情は、トーマスに向けたそれよりもより一層厳しいものだった。


「なるほど、灰毛アッシュフェールの一族か。聖者が呼び寄せられるわけだ」

「何を――」


 彼女の口から飛び出したのは、一族の名前だった。誇り高きものではない。人に聞かれれば、石を投げられ、罵声を浴びせられる、忌むべきものだ。

 視界の端に映る灰色の髪の毛。父さんも母さんも同じ。僕たちとそれ以外を分ける象徴。迫害の理由たるもの。


「お前に選択肢をやろう」


 僕の首元に鎌を掛けたまま、彼女は口を開いた。強烈な殺気を放ちながらも、その表情には楽しげなものがあった。いつでも僕の首を刎ねられると示しながら、二つの道を持ちかける。


「ここで死ぬか」


 笑う。悪魔のように。

 鋭い牙のような犬歯が、赤い唇の隙間から見えた。


「あたしと一緒に、地の果てまで巡るか」


 選べと。それ以外の未来はないと。彼女は強く宣言した。僕は首元の聖印を握りしめる。天秤の意匠を象った銀の首飾りを。

 選ぶものなどない。答えるべき言葉は、ただ一つだ。

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