第34話 風抜峡谷にて

 夏。群風岩の森は、豊かな恵みに満ちていた。

 西方の海から流れてくる雲が、満ち満ちに抱え込んだ雪を吹き散らす。

 冬の間に積もりに積もった積雪は、春から夏にかけて雪解け水となって山麗から森の隅々まで行き渡る。

 雪解け水は川になって、森の滋味と魔素を運んで、草木や細かな生命をはぐくむ。

 はぐくまれた命は、小さな生命の源となり、さらに大きな命へと収斂されていく。

 大きな命。

 それはすなわち、その森における捕食者たちである。

 魔素の伝達によって1つの群体として狩りを行う森狼。

 小山かと見間違うほどの群を抜いた巨体を揺らす大灰猪。

 凶暴さと不遜さ、そして執念深さで森の頂点に立つ秋熊。

 

 群風岩の森は豊かな恵みに満ちた場所ではあるが、捕食者たちすべてに行き渡るには些か足りない。

 そのため彼らが飢えれば、互いに奪い合うのは自明の理だった。

 命のやり取りに至れば、相手を打ち滅ぼすまでは終わらぬようなモノたちばかり。


 群風岩の森とは、生命たちが魔素と自然の恵みを求めて日々争う、猛獣たちの闘技場のような地であった。


 だが、その鉄火場の争いに敗れ、種と生命をつなげるために、群風岩の森から離れることを決めた獣たちもいた。

 捕食者たちに追われた獣がたどり着いたのは、群風岩の森に比べれば恩恵は少ない外輪山の森だった。


 そんな獣たちは、自分たちの目の前を、走り去る少年をジッと見つめていた。

 住処を変えたとて、獣たちは野生の高ぶりを忘れた訳でない。

 我が物顔で縄張りを横切り、潜む鼻先を無遠慮に通り抜けていく。

 少年の焦るような顔も、こちらをおちょくっているようで腹立たしかった。

 

 だがしかし、獣たちはその不届き者に襲い掛かるようなことはしなかった。

 それどころか、ただ遠目から恨めしそうに睨むだけだった。


 少年は獲物にしては、美味そうではなかったのか?

 いいや、良く引き締まった腿は、喰い甲斐があって美味であろう。


 走る少年が、自分たちにとって脅威だったからか?

 まさか?片腹痛い。


 では、なぜ指をくわえて眺めているのか。

 単純な話だ。少年は既に別のの標的だったからだ。

 先祖たちが群風岩の森から追われたときに、その遺伝子に刻まれた畏れの感情が手を出すのをやめろと叫んでいる。

 相手は、自分達よりも強大で、不遜で、何しろ猛り狂っている。


 先ほどまで少年がいたあたりの木々が、軋みと悲鳴を上げてなぎ倒される。

 倒木でまき上がった土埃の中から、丸くずんぐりとした真っ黒な影が現れた。

 それは、この森には本来居ないはずの秋熊だった。

 足の一つは、既にちぎれて欠落している。

 ぽっかりと空いた胸の空洞は、何か黒々としたものでふさがれている。

 周囲にまき散らす血生臭い獣臭が手負いであると告げているが、誰もその行く手をふさぐ気配はない。

 その秋熊は、この場にいるどの獣よりも、大きく、そしてぶ厚い。

 首から胸にかけて茜色に染まった体毛が、その脅威を見るものすべてに伝えている。

 半開きの口からは涎を垂らし、他のものが目に入らないのか、まっすぐに標的を睨みつけて離さない。

 ひどく獰猛で、それでいて異常だった。

 千切れた足を気にするような素振りもなく、倒木を踏み砕くと、腹の底を震わせるような雄たけびを上げ、一心不乱に走り始めた。

  

 地響きが遠ざかっていくのを感じながら、震える獣達は向かった先をただ眺めていた。



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 いつまで走り続ければいいのだろうか。

 走り始めてまだほんの数刻も経っていないが、カナタは自分の息が徐々に上がっているのを感じていた。

 夏の日差しを独り占めせんと頭上に生い茂る木の葉は厚く、うっすらと降る木漏れ日では些か光量が足りていない。森の中は薄暗く、おまけに肌寒かった。


「ハァ…ハァッ…体力付いてから、けっこう走れるようになってきたけど、山道はやっぱりキツいんだが!?」

 周囲に人影のない森の中を、カナタは文句を叫びながら森の中を駆けていた。


 先ほどまでマグニフ達と一緒に目的地へと向かっていた。

 だが、人を担いで走り回った無理が祟って、治癒魔術で繋がりかけていたマグニフの骨が再び折れてしまった。

 真っ赤に腫れあがった腕では、人を運ぶには到底難しく、秋熊が近づいてくる圧を前に、カナタは自分一人で目的地まで向かうと二人に提案した。

 幸い目的地までは、カナタの足でも向かえるぐらいまで近づいていたこともあり、山道で消耗し荒い息をつきながらも、険しい顔をしたベキシラフがその提案を飲んだ。

 「絶対に救援を呼んでくるから、それまで耐えるんだよ。」と彼からの激励を聞いて、三人は分かれた。

 カナタはしっかりと頷くと、自分の足で目的の場所へと向かっていた。


「うぐっ…ゲボ吐きそう。なんとか吐き出す前に目的地が見えてきたな…。」


 迫り上がってきた胃液を無理やり押し込みながら、薄暗い森を抜けると、切り立った崖の上にたどり着いた。崖下には、うっそうとした森が広がっている。

 特別、何の変哲もない豊かな森だったが、カナタはこの場所を鮮明に覚えていた。


「出来ればもう来たくなんて無かったな。

 …良い思い出が無いんだよ、ここ。」


 ”群風岩の森”

 カナタがこの世界で目覚めた日。

 ポエラ達に連れられて、この森を通り抜けたことがあった。

 正確には縄で拘束されたまま担がれて、その上空を飛び回る羽目になったのだが。

 群風岩の森の空には、あの日と変わらず、大小さまざまな浮岩が、ゆるやかだが風に流され、雲とともに漂っている。


「ベキシラフが言ってた合流地点は南西側……あっちか。」


 あらわになった太陽の位置から、概ねの方角に向かって再び走り出す。

 南西の方向、崖沿いに進んだ先に、目的地らしき地形が見えた。


「浮き岩が集まった外輪山の切れ間って言ってたけど…あった。あれが風抜かぜぬき峡谷か。」


 眼下の群風岩の森を囲い覆う壁のように広がる外輪山。目的地のそそり立つ山壁には、いくつもの切れ目が入っているのが見えた。


 カナタは細身な方の兄貴分の言葉を思い出した。

『外輪山の岩壁にいくつもの隙間が空いた峡谷は、風はすんなり通すけれど、浮き上がった風岩同士はぶつかり合って外輪山から出られないんだ。だから風抜峡谷には、足場になる風岩が溜まっているんだよ。』


 確かに遠目に見ても浮き岩だけが残っているせいか、峡谷の部分だけ風岩の密度が高い。ぶつかり合った風岩が砕けたのだろうか、細かな岩々が蔦や草木で緩く繋がっている。

 砕けた風岩から漏れ出た風魔素が密度濃く集まっているようで、カザミミ族は大型の獲物をそこに誘い込み、豊富な魔素をもって狩りを行うことがあるらしい。

 斥候隊の面々は、その位置にあの秋熊を追い込んで仕留める算段のようだった。


「追いかける音がめちゃくちゃ近づいてるんだけど…もうそんなに距離無いっぽいな。」


 最初は遥か遠くから聞こえていた破砕音と地響きは、いつの間にか走りながらでも実感できるほどに近づいている。

 この足を緩めれば、あっという間に追い付かれてしまうのだろう。

 震え出した足と、息を吐くたびに痛む肺が、今すぐ走るのをやめろと責め立てる。

 だが、ここまで来れたのは、他でもない村の皆の援護があってのものだ。

 自分を生かそうと身を削ってくれた彼らの思いやりを、カナタは無駄にするわけにはいかなかった。


 痛み出した脇腹を押さえようとして咄嗟に腰に手をやると、マレッタからもらった馴染み深い腰帯が指に触れた。村長から持たされたらしく、村を出る時にマグニフから受け取って身につけていた。

 カナタは腰帯に付いた小袋を外側から揉むように触った。袋の中に硬く丸い物が間違いなく入っていることを確認すると、カナタは安堵の息を吐いた。


「なんでまた、こんなものを入れたんだよ村長は?無くしても知らないからな。」


 腰帯の小袋に硬質な何かが最初から入っていることには気づいていたが、マグニフ達に運ばれているときは、取り落としかねなかったので触れずにいた。

 一人で走り出した際に、何かと思って取り出して見たところ、カナタは驚きでその眼を剥いた。

 中に入っていたのは、昨日の夜、洞窟の部屋で受け取った貴重な遺物。自分を使徒だと確認するために使った首飾りの宝石部分だった。

 変えの効かない大変貴重な物だと聞かされていたこともあって、カナタは急いで小袋に戻して入れ口を堅く閉じていた。

 

「どうせ、あの村長のことだから必要な物なんだろうけどさ…。よし、やっと着いた。」


 疲れも相まって力が入らなくなってきた足腰に喝を入れながら走り続け、ついに風抜峡谷の全容が見える位置まで来た。

 谷底はとても深く、断面は険しく、ほとんど垂直に地面へと向かっている。

 向こう岸は自分の跳躍力では到底渡れないほどに遠く、加えて村の家屋よりもはるか高い位置に存在している。

 峡谷の間には、谷壁に衝突し割れた岩々が広がっているが、岩と岩の間を飛び渡るには、足場としては不安定そうに見えた。

 ”風渡り”が使えるマグニフ達がこの場に居れば、話は別だったかもしれない。

 しかし、魔術が使えないカナタの足では、ここが終着点だった。


「マズい、行き止まりじゃんねぇ…」


 カナタは自身の血の気が引いていくのを感じていると、背後からひと際大きな音が響いた。

 反射的に振り向くと、先ほど駆け抜けてきた場所の木々がへし折れ、倒れていくのが見えた。

 森の暗がりの奥。爛々と光る2つの眼光がまっすぐにカナタを見つめていた。

 それはまるで森の常闇が瞳を持って、こちらを睨みつけているようだった。


 舐めるような視線をその身に感じて、カナタの全身が波打つように震えあがった。

 それは紛れもなく恐怖によるものだ。

 辛うじて悲鳴を上げなかったのは、今までの訓練によるものではない。

 押しつぶされそうな重圧によって、喉がつぶれ上がりくぐもった息が漏れただけだ。


 カナタは打開を求めて辺りを見回した。

 しかし、峡谷までたどり着いたが、眼前には崖が広がるだけで、これ以上進む道は無い。

 勿論、崖の下は深く、靄がかかって底は見えない。飛び降りれば、死因が変わるだけだろう。


 峡谷の周囲には、未だ斥候隊の姿はない。

 足止めを買って出てくれた面々は、駆け付けることは愚か道半ばで倒れたのかもしれない。

 もう終わりなのだろうか…?


「いや…!!諦めるわけにはいかないんだよ!!」


 カナタは両腿に拳を打ち付けると、助走のために崖から少し離れると、身体を傾けて全力で走り出した。

 後ろから木々をなぎ倒しながら走り込んでくる音が聞こえてくるが、カナタは一旦そのことを忘れた。

 定めたのは崖近くの浮き岩。

 踏み込んでもその身を支えられそうな岩が集まる一帯に向かって、助走をつけたカナタは、峡谷の先へとその身を躍らせた。


「うおおおお!!!とべえええええええ!!!!」

 

 宙に浮いた身体は、重力に負けて地上に向かって落下する。

 しかし、推力を保ったまま躍り出た身体は、なんとか浮き岩まで何とか辿り着いた。

 岩の上に広がった蔦を掴み取り、滑り落ちない様にくい留まる。

 自身の体重でも浮き岩はビクともしてないようだったが、いつ沈むとも分からぬ足場は頼りなく、崖際から離れようと蔦で繋がった次の浮き岩へと助走をつけて飛ぶ。

 ふと後ろを向くと、崖上に先ほどまで無かった小山が影を作っている。それは、小山と見間違うほど大きな秋熊だった。

 体中に刺さった矢で体毛を血で染め、茜色の体毛に覆われた胸辺りには、ぽっかりと空洞が見えた。

 生きているのが不思議なほどの深手だが、瞬きの無いその瞳はこちらを恨めしそうにじっと見つめている。

 

「ヤバい…狙い撃たれたら落ちる。」

 

 イタチもそうであったが、奴らは魔素の塊を吐き出してはぶつけてくる。

 いまの不安定な状態では、身体に当たらずとも、足場が揺らぐだけで容易に転落する。

 カナタは必死に距離を取ろうと、蔦で繋がった浮き岩を渡り、秋熊から離れようとするが、その祈りもむなしく背後から甲高い高音が聞こえ始めた。

 相手はこちらを溪谷に叩き落とすつもりらしい。

 開け放たれた顎には徐々に形作られていく魔素の塊が見えた。

 


「チクショウ。魔術が使えていれば…」


 絶体絶命の状況に歯噛みする。

 嫌だ、死にたくない。死んでいられない!!

 足掻こうと周囲を見渡すカナタの脳裏に、ふと一つのひらめきが思い起こされた。

 それは、自分が放った突風で吹きとばされていく村長の姿。

 どうせダメなら、ダメもとで試してみよう。


「やってみるか…諦めてる場合じゃない。」


 腰帯の小袋に入った球状の宝石を取り出す。相変わらず曇った橙色をしているが、構わずすがるように拳に握りこんだ。

 宝石に必死に念を送り込みながら、カナタはジィチに言われた言葉を思い出した。

 死にたくないなら助けを求めろ、少しでも嫌なら足掻いてみせろと。

「まったくもってその通りだよ、ジィチ。」

 自分が犠牲になれば少しは恰好が付くだろうと、気取っていたところがあったように思える。

 だが、格好悪く震え続ける拳が、まだ死にたくないと言っている。

 秋熊りふじんを前にして、湧き上がる怒りが嫌だと叫んでいる。

 

「やっぱり、俺はまだ死にたくない。

 この命、お前なんかにやるもんかよ…!

 俺はポエラ達と一緒に村に帰りたいんだ!!」 


 拳の隙間から淡い橙色の光が漏れだした。

 じんわりと暖かみを帯びた宝石を握りこんだまま、カナタは向こう岸をめがけて、足場の悪い浮き岩へ走り出した。

 加速し始めた身体は、あと数秒も持たずに足場を失う。

 死にたくないと言いながら、死地に自ら身を向かわせる矛盾。

 

 だがしかし、カナタには、拳の中に燈る光が自身を導いてくれるような確信があった。

 詠唱も何もない、ただ頭の中で想像する。 

 胸の中にある”炉”から純粋な魔素の塊を取り出して、宝石へと送り込む。

 繰り出すは、激しく噴き出す突風。

 思い浮かべるのは、風に身を任せて、空高く飛び上がる姿。

 出来る、出来るさ俺なら。


「やらいでかぁあああああ!!!」

 

 熊が魔素の砲弾を吐き出そうとした刹那。

 最後の足場から宙へ身を投げると同時に、拳の中で小麦色の光がほとばしった。

 浮いた足は空を切ったが、身体にまとわりついた風が、身体を引っ張り上げるように向かってくると、気づけば速度を上げて浮き上がっていた。

 

「やった!やった!!遂に出来たぞこんちくしょう!!!!!」


 荒ぶるヴィリティスに影響された品のない言葉が漏れ出るが、それほどまでにカナタの脳内は達成感と歓喜に満ちていた。 

 あれほど見込みのないと言われ続けた魔術の片鱗が現れたことは、カナタにとって望外の喜びだった。


 頭上、自身の背丈よりも10倍ほど高い位置にある、巨大な浮き岩に着地する。

 嬉しさで忘れてしまう前に、カナタは後ろにいるであろう熊を見た。

 振り向いた先には、虚ろな目でこちらを見つめ続ける熊の姿があった。

 そして、その口の中には、未だだった。


「アイツ…撃たずに待ちやがった!!」


 先ほどの喜びは吹き飛び、再び絶望がカナタの肩を掴んでいた。

 今すぐその場から逃げ出そうと岩を蹴り上げたとき、振り向き際に、熊の顎から砲弾が放たれるところが見えた。

 再び宙へと身を投げるが、既にその身を包んでいた風は失せており、重力に引っ張られ底の見えぬ谷底へと落ち始めた。


 熊が放った魔素の砲弾と、先ほどまで足場になっていた浮き岩とが衝突し、爆音を響かせて破砕した。

 音の衝撃波と、細かく砕かれたつぶてを身体に浴びながら、カナタの意識は途切れそうになる。


「…みんな、ダメだったわ。ごめんポエラ。」


 悔しさで歯噛みしながら、カナタは落下していった。

 どこかにいるポエラに届く様に、空をめがけて伸ばした手を…


「いや、見ていた。いい”風渡り”だった。」 

 

 苔色の外套に身を包んだ男に掴まれた。

 その装備はよく見知った狩人の物に他ならなかった。


「助けが間に合った…ってカリアト叔父さん?!」


 外套の頭巾の下には、マグニフによく似た風貌の髭面の男の顔があった。今まで革工場で働いていた作業着ではなく、初めて見る狩人としてのカリアトの姿だった。

 他の狩人たちと同じように”風渡り”の魔術で、カナタを抱えたままその身を宙に浮かせている。

 

「負傷者だらけで人手がいなくてな。久しぶりだな、この装備に身を包むのは。」


「じゃあ、叔父さんがマグニフ達が言ってた、村で一番強い奴?」


「…違うさ。奴のことなら、お前も良く知っているだろう。」


 カナタがカリアトの言葉を聞きハッと、気づいたように上空を見た。


 太陽に重なった上空の浮き岩が幾度か煌めくと、放射を描きながら熊めがけて魔素の矢が殺到する。

 空を睨み上げる熊に対して、碧色の砲弾が着弾し土埃を巻き上げた。



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