第29話『シマとカンちゃん』
相変わらず、翡翠はニコニコしている。
翡翠「また逃げるツモリなの?シマ。今度はスイから。」
博記「!!!」
琴羽「『また』…って?」
翡翠「昔のハナシなんだけどね。それはそうと、スイと音楽をやらない?」
翡翠は、博記を真っ直ぐ見ている。
慎司「!!」
博記「つか、何でオレがこの店に居るって分かったんだよ。」
翡翠「KENDYSでミルクセーキを飲んでたら、シマが店の前を駆け抜けて行ったから、一緒に居たレトロ君にダッシュで追いかけてもらったの。スイは、ミルクセーキを飲んでから、後を追ったんだ。」
凪兎「レトロ君?」
翡翠「男性の友人だよ。本名はスイも知らない。」
慎司「名前も知らないヤツとダチとは…。ロケンローだな。」
慎司はアゴヒゲを撫でながら、心底感心したという表情だ。
翡翠「アナタの名前も知らないよ。」
慎司「おっとそうだった。あまりにも驚いて自己紹介がまだだったな。オレの名前は音瀬 慎司。」
琴羽「通称オッちゃん(笑)」
菜々子「ヒロはもうウチのバンドでベースやっとる。」
菜々子は、あからさまに睨むように翡翠を見ている。
翡翠「おっと。そうだったの?でも、直接シマ本人のクチから聞きたいなぁ。」
博記「…。」
凪兎「オイもしかして迷ってるのかよ?」
菜々子「…。」
イライラしている菜々子は、その場から逃げるように、再び店の中に戻った。
琴羽「ちょっとナナちゃん?」
そして店内では…。
女将「あれ?ナナちゃんどうしたの?忘れ物?」
カウンターに座る菜々子を、不思議そうに見る女将。
菜々子「レモンサワーちょうだい。もっと濃いヤツ。」
女将「??」
とりあえず、言われた通り、レモンサワーを作り始める女将。
菜々子「なんでアタイ、こんなにイライラしとるんやか。」
女将「なかなか、自分の本当の気持ちには気づかない、というか、気づく事を拒むものよねぇ…。認めたくないって気持ちが、猶更邪魔をして。」
女将が出したレモンサワーを、菜々子は一気に飲み干す。
菜々子「アイツにイラついとるんか、それともアイツにイラついとるんか、アタイ自身にイラついとるんか…。」
菜々子に続いて店に入ってきた琴羽が、菜々子の隣に座る。
琴羽「全部ね。」
菜々子「チコ…。」
女将「外で何かあったの?」
女将は自動的に琴羽に焼酎ロックを作って出す。
琴羽「乙女には、イロイロあるのよね?ナナちゃん。」
そう言うと、琴羽は焼酎を一口飲んだ。
琴羽「ほんと、素直な気持ちを、正直な気持ちを、そのまま言えたら、どんなに良いか…。」
菜々子「チコ?」
菜々子は、滅多に見せないその琴羽の、困ったような、悔やむような表情に戸惑っているようだ。
琴羽「感情って、時に邪魔よね。でも、感情や気持ちがあるからこそ、相手の事を思いやれるからこそ、友情や愛情が生まれる。また逆も然りで、怒りや悲しみから、相手を傷つける事もある。肉体的にも、精神的にも。ただ厄介なのは、それぞれに、それぞれが正しいと思う一本のスジがあり、これは必ずしも他人とは一致しない。そして、今は世界に情報が溢れかえってる。スマホ1つで、何でも出来るし、この指先で紡ぐ言葉が、顔を隠したまま、人を救ったり、殺めたりする事も出来る。何でも出来るからこそ、何一つ出来ない…。言いたい事も言えないこんな世の中じゃ…。」
菜々子「ポイズン。」
女将「あの、だいぶ良い事言ってたみたいだけど、最後ソレで大丈夫なの?」
琴羽「だぁいじょうぶよ、ナナちゃん。ヒロは、居なくなったりせん。私達のベーシストは、ヒロしか居らんやろ?」
琴羽は、笑顔で菜々子の背中を軽く叩く。
菜々子「うん…。」
琴羽「そこの美人なお姉さん、このコにレモンサワーをお願い出来ますか?」
女将「ハイ喜んで!!」
菜々子「さっきのよりも濃いヤツね。」
女将「もう原液出すわよ…。」
そして、再び店の外では…。
慎司「ちゃんと答えてやるんだ。」
慎司は、ガラにもなく真面目な表情で博記に促す。
博記「コイツは、いっつも歌ってる、ニコニコしながら、歌を口ずさんでる、そんなヤツだった。」
凪兎「?」
翡翠「…。」
博記「小さい頃から、公園に一人で居るオレの横に来て、ずっと歌を歌ってた。別にオレは一人がイヤじゃなかった。家には居場所が無くて、父親からは、機嫌次第で、虐待を受けてたから、逆に家には居たくなかった。オレが父親に殴られたりしてると、母親が止めに入って、母親まで殴られるのがイヤだったから。だから一人で公園に居たんだ。そこに、ある日突然、コイツが現れた。」
凪兎「ヒロ…。オマエいったい何を…。」
博記「いつしか、学校でも、イジメられるようになった。オレ自身の性格がユガんでんのか、周りをイラつかせんのか、ソレは知らない。興味も無ぇ。で、オレは学校にも行けず、家にも居られず、一日中その公園で過ごす日が多くなった時にコイツに言われたんだ。『逃げるの?』って。」
博記は、誰を見るでもなく、視線を浮かせ、遠い記憶に想いを馳せているようだ。
凪兎「だからさっき『また』って…。」
博記「その時に、コイツから言われた言葉は今でも忘れねぇよ。」
その博記の言葉を受け、翡翠が…。
翡翠「逃げる事は、イツだって出来るよ。逃げる事が弱い事だとは思わない。だけどね、逃げる以外にも身を守る方法はあると思うの。周りが全部敵に見えても、スイはシマの味方だよ?先が真っ暗でも、よく目をこらして見れば、かすかな光が見えるハズだから。スイが、シマの、その光になるよ。シマは、スイが守るから。だから、少しだけ、向き合ってみよう?」
博記「ニッコリ笑ってそう言うと、コイツはまた歌を歌い始めた。その時の歌が、ずっとオレと一緒に居てくれたから、オレは生きてこれたんやと思う。何度も終わりだと思った時に、支えてもらった、それこそ、生きるチカラを貰った歌。次の日からオレは、また学校に通うようになった。コイツの歌を、心で握りしめて。大丈夫、オレなら大丈夫、って言い聞かせて。」
翡翠「スイの歌が、シマの生きるチカラになってたんだとしたら、凄く光栄だなぁ。」
翡翠は、真っ直ぐに博記を見つめて言った。
博記「コイツが歌ってた、オレにチカラをくれた歌は、当時、少しマイナーだったアーティストの歌だった。家に居る時は、そのアーティストの歌をヘッドホンしながらずっと聞いてた。ソレだけで、コイツが近くで笑ってくれてるような気がした。だけど、ある日、父親がイキナリ部屋に入ってきて、オレのヘッドホンを乱暴に剥ぎ取り、何かを喚きながらオレを殴った。別に殴られるのはイツモの事だったけど、その時ばかりは、この歌まで壊されるんじゃねぇかって思った。ソレだけは絶対に守らなきゃいけないって思って、死んでも守るんだって思って、気が付くと、父親の顔をブン殴って、今までの全部、溜まった、溜まってた全部をブチまけ、怒鳴りちらしながら、父親を殴り続けた。」
凪兎「…。」
博記「その騒ぎを聞きつけた母親が入ってきて、必死で父親からオレを引き離した。ソレでもまだ父親に殴りかかろうとするオレの頬を、母親が平手打ちしたんだ。ソコでやっと、オレは正気に戻った。それまで、恐怖の対象でしかなかった父親が、自分よりも遙かに大きな存在として見えてた父親が、あまりにも小さく見え、グッタリと力なく床に沈んでた。そして、父親は弱弱しい声で『悪かった。』って言ったんだ。」
翡翠「そのハナシは初耳だね。」
博記「ソレを話そうとしたら、オマエが突然姿を消したからだよ。それから、父親のオレに対する虐待は無くなった。家でも、部屋に居ても、突然殴られたりしてた生活が、変わったんだ。次にオレが公園に行っても、コイツは姿を現さなかった。次の日も次の日も、雨の日だってオレは公園に居た。けど、コイツは二度と現れなかった。そのまま、ずっとオレは、その歌を胸に生きてきた。」
翡翠「その事は、本当にシマには済まない事をしたと思ってるの。突然、本当に急に海外に移住する事が決まってしまって…。」
博記「オレがこれまで生きてこれたのは…、音楽が好きでいられたのは…コイツのお陰なんだ…。大好きな、カンちゃん…。」
そう呟く博記の目から、涙が溢れた。
翡翠「やっとその名前で呼んでくれた…。」
博記「有り得ねぇだろ…。突然姿を消して、と思ったら、突然現れて…。誰だか分からないくらい見た目は変わってたけど、相変わらずの口調と、その優しい笑顔…。現実で在るハズがねぇって思って…。」
翡翠「ソレで逃げ出そうとしたの?相変わらず、弱いなぁ、シマは。」
翡翠は、博記を見ながらニコッと笑う。
博記「あぁ…。また消えちゃうんじゃねぇかって思うと、怖くなった。」
翡翠は、優しい声で歌い始めた。
博記「この歌が…オレとともに生きてくれた歌がまた聴けて嬉しい。」
博記は、流れる涙を拭おうともせず、翡翠の歌を聞いている。
慎司「…。」
目を閉じて何かを考え込んでいる慎司。
凪兎「キレイな声だ…。」
翡翠の歌声を聴いて、通行人達がザワつき始めている。
翡翠(歌い終えて)「実は、海外からでも、シマに歌が届くようにって、ユーチューブを始めたの。スイには、どうしようも無かったからね。色んな歌を歌ったよ。だけど、この、シマとの思い出の歌だけは、まだ公開してないの。この歌は、スイとシマの、2人だけの歌だから。」
慎司「なんて事だ…。ソレが、世界的に大人気になったユーチューバーが誕生した理由…。」
翡翠「また逢えて良かった。逢いたかった…。」
笑顔のままの、翡翠の目からも、一筋の涙が頬を伝う。
博記「…。」
博記はもう言葉に出来ず、ただ涙を流しながら何度も頷いている。
翡翠「本当に日本に帰ってきたばかりで、絶対にシマを探そうと思って、レトロ君に、音楽を一緒にやろうって持ちかけたんだ。でも、断られてしまって。そしたら偶然、本当に偶然に、シマが目の前を駆け抜けていったから、コレは絶対に逃しちゃいけないと思って。」
凪兎「で、そのレトロって男に追いかけさせた、ってワケか。」
翡翠「スイは足が遅いから、絶対に追い付けないと思ったの。」
翡翠は、当然の事を言っている、という顔をしている。
博記「カンちゃん…。」
翡翠「うん?」
博記「ゴメン、オレ、SoundSouls抜けらんねぇわ…。SoundSoulsに誘ってくれたチコに、まだその恩を返せてねぇ。カンちゃんと一緒に音楽が出来たら、最高に幸せな事だと思う。でも、オレのような人間が、そんな幸せを手に入れて良いワケがねぇ。」
翡翠「相変わらず、卑下するモノの言い方だな。ま、それがシマらしいんだけど。」
博記「けどよ、オレなんかが、おこがましいけど、一つ、約束してくれんか?」
翡翠「もちろん。」
博記「もう急に、勝手に、居なくなるんじゃねぇぞ。」
博記は、流れる涙を拭った。
翡翠「もちろん。スイとシマは、親友だ。」
博記「おう。」
凪兎「所で、その、お目当てのヒロを見つけられたんだから、もう音楽をやる必要は無いのでは?」
翡翠「そうなんだよねぇ。でも、やっぱりスイも音楽が好きだから。誰も居ない場所から、不特定多数に向けて歌を発信するのにも飽きてきたし、大好きな日本語を駆使して、スイなりの歌を作っていきたいなと思うの。」
慎司「じゃあ、いずれはライバルになるって事だな。」
翡翠「そうなると思う。オッちゃんさん。」
慎司「オッちゃんでイイよ(笑)オレはSoundSoulsのマネージャーだ。これからSoundSoulsは大きくなるぜ?」
翡翠「いつか、対決しよう。」
博記「望むところだ。」
翡翠「じゃあ、スイは帰るね。」
博記「おう。」
凪兎「イヤ『おう』じゃねぇよ。送ってけよバカ。クチが悪い上に気も利かねぇのかよ。」
翡翠は、ニコニコ笑っている
博記「あ…あぁ。送るよ。」
翡翠「嬉しいよ、ありがとう。」
そして、歩いて行く博記と翡翠を見送る3人。
凪兎「なんつぅか…。」
慎司「アイツも必死で生きているんだよ。」
凪兎「だな。」
慎司「アツいね。久しぶりに面白くなりそうだぜ。」
そして、2人も再び店内に戻る。
凪兎「あれ?ナナ、寝てんのか?」
琴羽「遂には原液に手を出しちゃって…。」
凪兎「どういう事だよ…。」
琴羽「で、ヒロは何て答えたの?」
慎司「…ってなワケで、SoundSoulsは抜けられないって。」
凪兎「まだチコに恩を返せてねぇって言ってたけど、何の事だ?」
琴羽「うん、やっぱヒロやわ。」
凪兎「ま、答えてくれるとも思ってなかったけどよ。」
琴羽「そのうち、ね。」
凪兎「しかし…カンちゃんって…?」
琴羽「白神、しらかみちゃん、かみちゃん、砕いて、カンちゃんってトコじゃない?」
凪兎「シラちゃんとかのが、よっぽどシックリくるとは思うけどなぁ…。」
琴羽「ソコは、あの2人の世界やけんさ。」
こうして、世界的にも有名なユーチューバーは、突如として活動を停止し、歌手としてデビューする動きを見せ始めた。
そして、マネージャーが加入したSoundSoulsは、これから急加速していく…のか?
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