14 消えない温もり

 目が覚めた。ぼんやりとした視界には見たことのない部屋が広がっている。


 目を擦って周囲を見渡す。横を見るとカーテンの備わったベッドが五つほど並んでおり、正面には部屋の隅まで届く大きな棚があった。ガラス張りの棚の中には何やら怪しい色を放つ薬が数えきれないほどあり、その光景はさながら実験室のようだと思った。


「ここは──保健室……? そうか。俺気絶したんだったか」


 1日目からクラスメイトに首を絞められ、気絶とは物騒で仕方がない。どうすればあんなことにならずにすんだ? 名前を騙ってしまえば良かったか? 


いいや、この世界で名前を騙るのは負に属する者だと校長は言った。それならばまだ慣れないスパーダ・リンドバーグという名前を使わなければならない。


 だがその名前を使った上で俺は名前を騙っていると言われた。俺に一体どうしてほしいというのだろうか。


「はぁ……なんだってこんな目に……」


「あ、起きたのね。おはよう、スパーダ君」


 ひょこっと彼女はカーテンから顔を覗かせた。教室に入ってきた女性、察するに担任だろうか。そして何よりも目につくのはその顔立ちだ。髪の色が赤みのかかった茶色ということ以外、庭園で出会ったあの赤髪の少女の顔つきを成長させたといった印象。


しかしあの少女はこのようには笑わない。笑った姿を見たわけではないが、こう思う。この女性の太陽のような微笑みを、今のあの少女に出来るはずがない。


「……俺、どれだけ寝てたんです?」


「今は14時よ。君は時間にして5時間ほど寝てたわね」


「……そうですか」


 時間で伝えられても意識を失ってしまえば長いのか分からない。ともかく今はここから出ないと……。


「一人で動いちゃだめよ」


 女性はシーツから出したこの手を握ってベッドから起き上がろうとした俺を止める。なぜか分からないが、その手の温もりにはどこか懐かしいものを感じた。


「……ところで貴方は?」


 俺は名前を聞いていないことを思い出して彼女に訊いてみると、彼女はあっ、と手で口を押さえた。……どうやら名前を伝えるという第一のステップを彼女は頭からすっぽ抜けさせていたらしい。


「あのー……」


「いいえ! 決して忘れてませんからね!? ハイ、私はライ先生! 1年1組、つまり貴方の担任です!?」


 疑問形で名乗られたのはさておき、彼女は俺たちの担任だという。ライ先生はワタワタしつつもしっかりと俺が無理をしないように俺の手を押さえていた。


「あのー、先生?」


「はい?」


「俺、無理しませんから、手を──」

「離しません」


 ……はい?


「あのー、手を……」

「離しませんよ?」


 ……どうすればいい? この状況。強引に引き剥がそうとする俺と、それを頑なに拒む先生。保健室には俺たち二人。んー、どういう状況?


「……とりあえず理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「貴方が無茶をするからです」


 先生の返事は間髪入れずに飛んでくる。なぜそこまでして俺を引き止める? 俺は本当に無理をする気はないというのに。


「はあ……本当に無理する気はないんすけど……」


俺はボソッとため息混じりに呟いた。ライ先生の様子を見てみると、何か心配そうに下を向いて、彼女もボソリと何かを呟く。


「……だって、無茶してたもん……いつも……」


「え?」


「いえ、なんでもないわ。あ、そうだ。スパーダ君、お腹減ったでしょ?」


「はい? あ、ああ減ってますけど……」


突然の雰囲気の切り替わりに俺は驚いた。ライ先生は子供のように笑って、俺の手を取りながら立ち上がった。


「じゃあ、食堂に行きましょ? まだ歓迎パーティーやってるはずだから」


 ライ先生の手につられて俺も立ち上がる。だけど俺は動かない。腹は減れど俺は食わない。歓迎と言われようとも、は……


「ん? どうしたの?」


「先生、俺、行きません」


 ハッキリと、区切りをつけて、伝わるように。俺は彼女の手を振り払った。


「……え、なんで?」


 先生はキョトンとした表情で固まる。そんな顔をさせる気はないに決まっている。だけどこればかりは俺には無理だ。


「俺は行けません。俺はされてませんから」


 ……くそ、なんで初日からこんなことになる。そうだよ。みんなの顔を思い出してみろ。困惑、好奇、嫌悪、そして怒り。全部、全部、俺が一番嫌な顔だ。今まで何度見てきたその顔を。どこを歩いても目を向けられる。俺を知らない人間なんて学校あそこにはいなかった。隠していても右腕を見られる。見たことがないやつでさえ、俺を気味悪がった。


 そんな状況だったというのに、ここでは隠すことさえできない。俺はありのままを見せるだけでもあのザマだ。そんな俺が彼らの前に現れてどんな顔をすればいい……。


「……馬鹿なのも相変わらずね」


「……え? イタッ!?」


 先生は俺の頭にこちんと頭突きを食らわせた。本気じゃなかったから少し痺れるような感覚で済んだけど──


「──あ」


 彼女は微笑んでいた。暖かい陽だまりのようなその柔和な表情が俺の頭の中を溶きほぐす。俺は見ていた。彼女の微笑みを。俺は一体どれだけ彼女に救われたのだろうか。今の俺では断言できない。それでも俺は彼女に救われていた。記憶はなくともという存在がそれを明確なものへと至らせている。


「貴方は歓迎されてないわけじゃないわ。ただ、おとなたちが勝手だっただけ。君がまだ知り合ったばかりのあの子たちに対してそう思うのは当たり前よ。だけどこれだけは分かって欲しい。先生だけは、絶対に貴方の味方だから」


 ぎゅっと俺の手を握って先生は俺を連れて行く。俺は止まれなかった。俺は分かっている。どれだけ俺がみんなから奇怪な視線を浴びせられようとも、学校ここで生きていかなければならないことを。


◆◆◆



「先生! 本当に行くんです!?」


「そうよ! でも、貴方が絶対に行きたくないっていうなら無理強いはしない。私はみんなに会っておいた方がいいと思うけど、そこは貴方次第よ」


 小走り気味に俺を引っ張っていた先生は足を止めて俺の顔を真っ直ぐ見つめた。少し息を上がらせているが、真剣な表情で俺の返答を待っている。


「……行きます。初日から顔見せしないとか、どうかしてますから」


 俺も先生の顔を見つめて返事をする。そうだ。逃げてはならない。俺だってみんなと仲良くなりたい。今度こそ作るんだ。自分の居場所を。


「……よし! じゃあ、行こ!」


 俺の手を引っ張って先生は走り出した。俺も走り出す。周りに人はいなかったが、もし俺たちを見ている人がいたとしたら、俺たちはどんな姿に見られるのだろう。それがもしかしたら記憶さえも関係のない仲だというのなら、こんな俺にもこの世界に居場所があるのかもしれない。そんな幻想を抱きつつ、俺は階段を駆け降りた。


「はぁ……はぁ……! 先生、速すぎ……っ!」


「フゥーッ! 久しぶりに走ったわね! 実は私足速いのよ!」


 そのスピードは疾風の如く。短距離ランナーのような加速のまま先生は階段を走り抜け、俺は旗のように体が靡く感覚に引っ張られる。先生は息を荒げることなく、健康的な汗を流して輝いている。死ぬような思いで耐え切った俺とは正反対だ。


 俺たちは校舎の入り口にまで降りてきた。広い玄関で、以前校長室に向かった際に通った職員玄関と同じように、こちら側にも職員のロッカーがある。


「うわっ、まだ雨降ってるわ。無駄かもしれないけど『膜』張ってくかー……あ、そうか。スパーダ君は傘がないといけないのか」


 先生は頭に手を置いてあちゃー、と舌を悪戯っぽくだす。その顔を見て俺は思う。にいる彼女には、やはりそんな顔はできないだろうと。


「……もしかして、ずっと待っていたのか?」


「…………うん」


 彼女は長い間の末に小さく頷いた。……呆れた子だ。俺が嫌で逃げたのに、なんでを持っているんだ。


「え、マキナちゃん!? なんでいるの!?」


「!? お姉ちゃん!?」


 後ろを振り返ると先生が驚きの表情で赤髪の少女を見ていた。俺の予想通り二人は姉妹のようだ。そして赤髪の彼女はマキナというらしい。マックが言っていた空席の子だ。


 この姉妹を見比べてみるとところどころ二人には違いがあることが分かった。


 先生は右に泣きぼくろがあるが、マキナには泣きぼくろがない。先生の髪はセミロングの赤混じりの茶髪だが、マキナは混じり気のない赤髪のショートカットだ。体つきは小柄で可愛らしいマキナと俺よりも背が高くすらっとした美人の先生。目を引く場所は先生も中々だが、マキナのはそりゃ……


「そりゃ、なに? スパーダ君」


「そりゃ、スゴい。色々と……え?」


 言葉のレールに沿って俺は言葉を紡いだ。そうさせたのは目の前で寒気を感じさせる笑顔を見せながら、拳を鳴らすライ先生だった。


「マキナちゃんを可愛いと思ってくれるのも嬉しいし、私のこと美人って思ってくれるのも嬉しいけど、最後のはいただけないな〜。君にはまだ早いんじゃないの? そういうのは」


「え? 何のことすか?」


 一体先生は何を言っているのだろう。早いって何のことだ? 俺には先生の言っていることの意味が理解できなかった。だが先生は俺の心の中を見ているようだ。そうでなければさっきみたいに糸で操られたような誘導のされ方はしないはず。


「はぁ……本当に分かってないみたいね。まあ、そっちの方が君らしくて可愛らしいけど。あ、そうだ。マキナちゃん」


 先生はため息を吐いた後、照れっぽい笑顔を見せた。そして先生はマキナの耳もとで何かを囁く。それを聞いたマキナは顔を赤らめて恥ずかしそうに俯いた。


「あ、いけない。そういえば私、担任の業務がこれからあるんだった。別の棟に行かないといけないから私の分まで楽しんできてね、スパーダ君♪」


「え、ちょっと!」


 先生は急に話を切り上げ、楽しげなスキップで玄関外の広場へ飛び出した。傘も差していないのにその体は濡れず、水を弾きながら揺れている。


 ……やられた。あの先生、俺とマキナをここに残すことを企んだんだな。


 目の前には俺を拒絶した彼女がいて、俺は人気の無いこの玄関で彼女と向かい合っている。


「……怖くないのか。俺が」


 彼女に問う。彼女は俺に恐怖を抱いて逃げ出した。それは間違いない。しかし今はどうか。少なくとも今ここにいる彼女は逃げ出す素振りは見せない。まるで受け入れるように、それでも少なからず恐怖はあるようで、震える手でを握っている。


「……ううん。君だから怖く……ない。わたし、逃げたから……お返し、しないと」


 ……嘘だ。じゃあ、何でそんなにも光のない瞳で俺を見る。逃げろ。言葉は強がりに決まっている。だってその体は嘘偽りなく恐怖に震えているじゃないか。なのになぜ、君は俺に気をかける?


「……嘘をつくな。君は俺が怖いんだろ? 見れば分かる。言葉とは裏腹に君は震えてるじゃないか。……無理をしなくてもいいんだ。俺は濡れてもいいから、君は俺に構わなくていい」


 罪悪感が入り混じりながら俺は彼女のそばを抜けていく。俺は彼女とは関わってはならない。俺は彼女に触れられない。ずっと俺を待ってくれていても、俺は彼女のあの苦しみを見たいわけじゃないんだ。


「……待って」


 俺を止めたもの。それは彼女の震える手だった。去ろうとした俺の服の袖を掴み、より震えを増しながらも彼女は俺をここに繋ぎ止めている。


「……なんで俺から逃げないんだ?」


 彼女の顔を見ながら俺は尋ねる。彼女は決意したような顔で俺を見つめていた。声は消え入るように弱くとも、その声は俺の耳にしっかりと届く。


「……いつまでも逃げちゃいられないから……だから君も逃げないで……もう、いなくならないで……」


 彼女の声には悲痛が混ざっていて、その真意を俺には理解できない。ただ、彼女は、マキナは深い悲しみを持っていて、それが俺のせいだということは分かった。


 そうでなければマキナはこうして俺を捕まえて、そんな顔で涙を流すことはないだろう。


「……勇気を出してくれたんだな。これ、いらなければ捨ててもらってもいいし、返さなくてもいい。傘、ありがとう。またな」


 彼女が抱えていた傘にはちゃんとマキナの温かみが残っていた。雨から俺を守ってくれるこの温かみのように、俺の熱も氷のようなその涙を、少しでも溶かして彼女を温めることができればと思った。

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