11 薔薇は冷たく雨に濡れて

「おはよう、ノ……スパーダ」


「おはよう、俺の前ならノアでもいいぞ?」


「……いや、これから君はこの名前で生きていくんだ。僕も本当の名前で呼ばせてもらうよ」


 午前六時三十分。起床した俺たちは揃って顔を洗いに行く。グリフィスとの面会から一週間。今日はエーデルヴァルト魔法学校の入学式だ。校長が入学手配を済ませてくれており、すでに制服は届いている。


「どんな学校生活になるか楽しみだね」


「だな。魔法の学校……どんなことを学べるのか楽しみだぜ」


 改めて魔法を学ぶことが出来ると思うと胸が弾む。ローベンも同じようで顔を洗うスピードが上がり、俺の服にまで水ハネが襲う始末だった。


「うわっ、見ろよ、これがローブってやつか!」


「思ってたよりも軽いんだね。これなら楽そうだ」


 俺たちは学校の制服である赤のラインが入ったローブを着た。見た目よりも軽く、つかえることもなく動きやすい設計にされてあるようだ。


「おはようございます。おや、お二人ともお似合いですね」


 鏡で身だしなみの確認をしているとオリバーがいつものように配膳台に食事を乗せて運んできてくれた。


「今日もありがとう、オリバーさん。俺たち今日入学式なんだ」


「はい。校長からお聞きしております。これからあまり会う機会が少なくなると思うと少し寂しいですね」


 オリバーが食器を机に並べながらいつもの淡々とした調子で話した。


「大丈夫さ。学校に入るんだから会おうと思えばすぐ会える。俺、色んなこと勉強してオリバーさんにも今日までの借りを返したいしさ」


 俺は並べられた食事の中からまずはスープに手をつける。ここでの朝食も最後かと思うと少し寂しい。


「はははっ、ありがとうございます。ではこれから良い学校生活を」


 お辞儀をしてオリバーは配膳台を引いて退出した。


 今日の献立は先程手につけたスープとパン、野菜のサラダといった軽めな献立だった。


 俺たちは朝食をとり、歯を磨いて荷物を持つ。そして部屋の整理を行なってから部屋を出た。


 前日に学校の施設を見て回っていたため、入学式が行われる大講堂への行き方もバッチリだった。俺たちは来客棟の外に出た。そして事前探索で脳内に収めた広い学校敷地のルートを辿り歩き始める。


「ちっ、せっかくの入学式だっつーのに雨とは……俺たちの高まったムードを返せってんだ馬鹿野郎」


 先程までの高潮は曇天の空によって崩れ去ることとなった。

 来客棟から出る際にオリバーが見送りをしてくれた。その時からすでに雨が降っていて、俺とローベンはオリバーから傘をもらい、雨を凌いで校内へ向かうこととしたのだ。


「ああ、全くだ。よりにもよってこんな日に……」


 ローベンも深くため息をつき、肩を落とす。しとしと雨で、あまり勢いはないが、それでも俺たちの入学を歓迎するような天気でないことは明らかだ。


「……ま、残念だが仕方ねえ。……しっかし広いよな。この学校はよ」


「そうだね。施設を覚えるだけで一苦労しそうだ」


 いま歩いているのは学校の庭園だ。この国で最も大きな学校と校長が語ったように庭園はとてつもなく広い敷地に花が数え切れないほど咲き乱れている。なかでも一面に広がった横に見える赤い薔薇たちの咲き具合は見事なもので、雨の中でもしっかりと映える。思わず立ち止まって見たくなってしまうほどのものだった。


「ここの入学式は俺たちみたいに事前にクラスを伝えられた一年生が集まるのかな?」


「多分そうなんじゃないかな。話によるとこの学校は入学の年齢を指定していないみたいなんだ。僕たちみたいに別の世界から来る人がいたり、魔法学校より下級の養成所、つまりここが高校、大学だとしたら養成所は小中学校のようなところだ。そこに通ってから入学する人もいるみたいだからね」


「……お前、ずっと俺と一緒にいたのになんでそんなこと知ってるんだよ」


「だってこのパンフレットに書いてあったからね」


 そう言ってローベンはポケットからパンフレットを取り出した。


「前もらったやつか。あんまりちゃんと読まなかったな」


 そういえばそんな物をもらった覚えがあったが、俺は学校の見取り図をチラと見たくらいでローベンのように細かな詳細までを知ろうとはしなかった。


「それぐらいちゃんと確認しとこうよ……」


「まあ、そんなすぐに大事になる事でもないだろうし良いだろ。だいたいお前は──」


 そう言いかけたところで足が止まる。時が止まる。雨の音が遅れてやってくる。その赤い髪が、俺の頭にかかっている薄暮のような薄暗がりの膜を凪ぐようで。


「? スパーダ?」


 しんしんと雨が音もなく降る薔薇の庭園。傘もささずに彼女は雨に濡れてその一面に咲き誇る薔薇の数々をぼんやりと見つめていた。


 きめ細かく白い肌にスラっとした鼻筋が通る顔立ち。


 赤のショートカットの髪は咲き誇る薔薇の絨毯よりも鮮やかで、その髪を伝った水滴がまるで花蜜のように滴り落ちている。


 その瞳は透き通るような翡翠色で、だけど、まるで何も見ていないかのような虚で生気を感じられない瞳。その髪との対比も相まって、生物と無生物を混ぜ込んだ歪なのに麗しい西洋人形ビスクドールのようだ。


 それが悲しかったのか、許せなかったのか。一体何を思ったのかは分からない。


「あ──れ──?」


 傘をさしているのに濡れる。濡れているのは何故か頬で、無意識のうちにどんどんそれは溢れてくる。拭っても拭っても止まることはない。


「ス、スパーダ!?」


「あれ? あれ……? なんで、俺……?」


 ……涙? なんで? なんで俺泣いてるの? 


 訳も分からずただただ涙が溢れるだけだ。何故かその姿を見るだけで俺の心臓は鷲掴みにされたように締め付けられ、頭の中がかき混ぜられるようにぐるぐると回る。その赤い髪も、奇跡とも思えるその美貌も、そんなのは外につけられた要因に過ぎない。


 違うんだ。そんな誰でも口にできるような事実じゃなくて、もっと──もっと深い、何かが──


 足が前に出る。俺の命令ではなく、無意識の自分がただそうしたいというふうに彼女に近づいていく。吸い込まれるように、足が一歩、二歩と早く彼女のもとに行けというように。


「あ、あの──」


 声をかける。情けない涙声で俺は彼女に話しかけた。彼女がゆっくりとこちらを振り向く。その刹那、彼女の表情は驚いたかのように朧げな目を大きく開け、その透き通り生の無い翡翠色の瞳には命が吹き込まれたような気がした。


「──」


 時がまた止まる。頭に見たことのない映像が絶え間なく流れ込む。この世界がまるで、最初からここになかったかのような俺と彼女だけの庭園。何を見ているのか。俺は、なにを。彼女は、その瞳で誰を見ている? そしてその流れ込んだ映像の一つは真っ暗な闇の中だけで、何も見えない。それが最後の映像で、それが流れた瞬間に、俺の意識は現世うつしよに引き戻された。


「──あ……?」


 一瞬で景色が変貌するその不飽和性によって俺は少しばかり意識が飛んでいた。気がついた時の彼女の顔は先程見た驚きの顔ではなく、心配しながらも何処か怯えたような縮こまった顔で、俺をぼんやりと、またその命のない瞳で見つめていた。


「あ、ああ」


 ハッとして俺は自分が何をしたいのかを瞬時に考えた。絶対に外から見たら俺のやってることは間抜けでしかない。情けない声を出して泣きながら女の子に話しかけただけのよく分からない男と見られるに違いない。


「あ、雨に濡れますよ。いや、もう濡れてますけど……とりあえず傘使ってください。俺いらないんで」


「あ……だ、大丈夫……」


「いや、そんなに濡れたら風邪引きますから。せっかくのなのに、そんなのダメっすよ」


 俺は俺たちと同じローブ姿の彼女を見てそう言い、その白い手を取った。


 それが間違いだったのか。多分そうなんだろう。彼女のその瞳を何故理解してあげられなかった。あの顔は、あの姿勢は間違いなく恐怖を持っていたというのに──


「──ッ!!」


 俺が彼女の手に触れた瞬間、彼女は俺の手を強く弾いた。傘が宙を浮く。「ふわり」という優しい擬音が伝わるよりも、「ガサッ」という硬く虚しい落下音が強く耳に残った。


「──え?」


「……あ、ああ……わた、し……ごめ……んなさ、い……いや、いや……イヤァァ……ッ!!」


 彼女のことは何も知らなかった。こんなことを勝手に思うのは彼女の尊厳を傷つける愚かな行為だと思う。だけど、そうだとしても、彼女のその目の前には何も無いのに、何かに怯えるように涙が頬を伝ったその顔はあまりにも痛々しくて、俺は何もできなかった。見て──いられなかった。


「ごめ、ん……なさい……! ごめ……ん……なさい……!! だいじょうぶ……だか、ら……!!」


「──あ……! まって……!!」


 彼女は謝り続けながら、壊れそうなその華奢な体でこの場から逃げ去るように走っていった。手を伸ばしたけど届かなかった。俺はその姿を見るしかできなかった。俺に残った感情は理解できないものばかりだったけど、分かったのは二つだけ。「無力感」と「喪失感」だけだった。


「……大丈夫だからって……なんだよ……そんなわけ……っ……ない、だろ……っ!!」


 まだ止まらない。まだ俺の頬を伝う雨は消えない。より強さを増して降るそれを感じながら、俺は行き場のない悔しさに歯を軋ませて、強まった曇天の雨を茫然とこの身で受けることしかできなかった。

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