第1章 前編 雷光の如き勇気
1 島の少年
地中海の冬は極寒ではなくとも寒いものだ。そしてカラッと乾いたバカンス期である夏と違い、この時期は雨がよく降る。だが寒くても雨が降っていても働かなければならない者はこの世にごまんと存在する。
彼らもその働く人々の仲間だ。雨が降り、地面が少しぬかるみ始めた森の街道を、背にかけた木こりの籠に水が溜まることも気にせずに二人は歩く。
「悪いな、母さん。俺の仕事なのに」
「いいんですよ。あなた。私もあなたが稼いでくれるおかげで雑貨屋の仕入れができてるんですから」
「確かにそうかもな。いやー助かる。ん? あそこに何かあるぞ?」
森の木々をすり抜けて、木の葉を伝って落ちた水の溜まり場の中に、彼はいた。
「きゃあ!?」
「子供だ! いったいどこの子なんだ? ……特に怪我はないな。よし、母さん。連れて帰ろう」
「ええ。家に帰って温めてあげましょう」
「? なんだこの子の右腕の模様は……?」
──2000年 7月
夏の匂いと磯の匂いが混じる風が髪をすく。丘の中腹あたりにあるこの一軒家の窓から眺める島の景色は、夕陽によって照らされた海の煌びやかな光に反射され幻想的な世界を生み出す。夕暮れの光が射し始めた頃、俺はその景色に見入っていた。
「こら! ノア! 早くこっちの手伝いをしなさい! 休むのは仕入れが終わってから!」
「しょうがねーなー。分かったよ」
ここは地中海に位置する人工島バース。今日も俺は自宅兼雑貨屋の「ニーズ」で働いていた。
「しっかし何でウチはこんなに仕入れ量が多いんだ? あんまり客来ねーじゃねーか」
仕入れた商品の確認をしながら文句が垂れる。横には母さんがいて、母さんはもう日暮れだというの商品の陳列に精を出していた。
「最後の言葉は聞き捨てならないねえ。これでも常連さんや近所付き合いがあるんだから。それにね。ウチがこれだけの量を仕入れるのは雑貨屋として常にお客さんの要望に応えられるようにするためさ。当然のことだろ?」
「……まあ確かに客の声に応えられない店は失格だけどさ」
「だけど?」
「いやなんでもありません」
俺は母さんの睨みに負けて従順に作業に取り掛かるしかなかった。
正直に言ってこれだけの品を揃えるからあまり経営は上手くいっていない。そもそも俺の家は店が本業ではなく、親父の職である大工業が主な収入源だ。親父が稼いだ金を上手く家計に当てて、その余った金を商売に割っているに過ぎない。
7月中旬にもなったが、まだまだ売り上げは赤字だ。俺はそう考えながらまた夕方の日差しが差し込む窓を覗いてはぼーっとしていた。
「こら! 何ぼーっとしてんだい! 早く手伝いな!」
「もうすぐ日が暮れるぞ? もう客は来ねーって」
「いいや、絶対来るね! 私の勘に間違いはない!」
この母親はいつも自信満々だ。何がそこまでその自信を生み出すのか……。そう考えていると俺の予想に反して店のドアが開く音がした。
「ゲ、本当に来やがった!」
慌ただしく仕入れの手伝いを中断して俺はすぐにカウンターに向かった。
「ほれ、言わんこっちゃない」
後ろから母さんがそう言った気がしたが一切気にせずに急ぎ足でカウンターに向かう。
「いらっしゃいー…… ってローベンじゃねーか? 久しぶりだな。こんな時間にウチで買い物か?」
「やあ、ノア。うん、ちょっと近くまできたからついでにってね」
この黒髪の少年はローベン・ハーバー。特徴を挙げるとしたら──……何もないな。それぐらい地味なやつだ。俺と同じで学校に行っていない、友達の少ない俺の親友という存在だ。
「ついでにじゃなくてさー。何か買っていってくれよ。母さんの仕入れのせいでウチいっつも赤字なんだよー」
その時俺は急に首筋に迫る寒気を感じた。勿論それは俺が滑らした一言のせいだった。
「誰のせいで赤字だって?」
後ろを振り返るとそこには腕を組んでこちらを睨みつける母さんが立っていた。
「こんばんは。おかあさん」
ローベンは笑顔で母さんに挨拶した。母さんはローベンに気がつくと先程までの怒気を雲隠れさせて笑顔を生み出した。
「あら、ローベン君じゃない。こんばんは。珍しいねーこんな時間に」
ローベンはよく家に入れて遊ぶ仲で母さんも気に入っている。こんな地味なやつのどこがいいんだ? と聞くと、だって可愛い顔してるじゃない。素直ないい子よ。と返されるのがいつもの流れだ。
「ええ。近くまで立ち寄ったものですから来ちゃいました」
まあ、確かに子犬のような人懐っこい顔をしている気はするが。
「なあなあ、なんか買っていってくれねえか? ほら、この香水とか、どうだ? この島原産のシトラスの香水だぜ?」
俺は言葉に熱を込めて宣伝する。実は俺は男にも関わらず花が好きなのだ。女々しいと思われるかもしれないが、花は見ていて心が落ち着くし、香りを楽しみ、人間の生活をより良くしてくれる大切な生命だと考えている。
母さんも花が好きで、この雑貨屋は花を加工した製品や生花の販売も行っていた。
「相変わらずの熱弁だね……」
ローベンは苦笑して他の品々に目配りした。そしてその目線の先にあったのは、
「おお! 綺麗な薔薇だね!」
ローベンが指を差した先には俺が今朝陳列した柔らかく明るいピンク色の薔薇が鉢に堂々と植っていた。
「へえー……いいもんに目をつけるじゃねえか。誰かにあげるのか? もしかして……女か?」
俺はニヤリと笑ってローベンをからかった。
「え? ははは、冗談もほどほどにしなよノア。こんな地味なやつにガールフレンドでもいるかと思ったかい? ただ綺麗だなって思っただけだよ」
ローベンは少し驚いたように目を開いた後、すぐいつもの癖である頬を掻く仕草を見せた。こいつは照れ隠しに頬を掻く分かり易すぎる癖があるのだ。
「本当かぁ? 最近お前見かけなかったし本当は──イテッ!」
ニヤついていた頬が急な頭頂部を真っ直ぐに落とされる衝撃によってぶるっと震えるのを感じた。そしてそれと同時に背中の方から熱い炎のような空気が首元へヒシヒシと伝わるのも。
「そんなんだからアンタには彼女が出来ないんだよ、バカ息子が」
その正体は母さんの怒りの業火による空気の熱さだった。日頃からゲンコツを食い続けて俺の頭は若干変形していると思われる。
「ってて……もし本当に馬鹿だったらアンタのゲンコツのせいだからな! この馬鹿力女!」
「ああん!? なんだって!?」
頭に血が上り始めた時に少し急いだようにローベンが口を開いて今切られようとしている火蓋を鎮火した。
「まあまあまあ、買いますよ。その薔薇」
「お買い上げありがとうございまあーすっ!!」
怒り合っていた二人は口を合わせて言った。そしてその後の手捌きは手慣れたもので勘定係の母さんと包装係の俺という二人のコンビネーションで瞬く間に選ばれたピンクの薔薇はプレゼント用の花束へと変貌を遂げた。
「ありがとう。まあ、プレゼント用ではないんだけどね」
またしてもローベンは苦笑してその花束を受け取った。
「ありがとう、ノア、また来るね」
「ああっと、待てよ」
受け取った途端に店を出ようとするローベンに言葉をかけて押し留める。
「ローベン、薔薇の花言葉って知ってっか?」
「? 確か──愛、だったかな?」
ぽかんとした表情でローベンは言った。
「確かにそれもある。というか基本はそれだろうな。けどな、薔薇っていうのは色々な花言葉の派生がある。ほれ、薔薇の本数を数えてみな」
そう言って俺はローベンが抱えている薔薇の花束を指さした。
「ええっと……一、二、三…………十三本だね」
「ピンクの薔薇は愛の他にも感謝の意味がある。そして十三本っていうのは……
フィンガースナップを決めて俺は手渡した物の意味を伝えた。頭にまた衝撃が走った気がしたがそんなものは気にしない。俺はただローベンがどんな反応をするのかを観察していた。
「そうなんだね……ありがとう」
俺の予想に反してローベンの反応はえらくドライなものだった。冗談ぐらいは言い合う仲なのになぜこんな対応をとられたのかを俺は急いで考え始めた。
「おかあさんもありがとうございました。また来ますね」
ローベンは軽く会釈して淡々とした足取りで店を出て行ってしまった。
「アンタが変なことするからローベン君愛想つかしちまったじゃないか」
「あれー? こんなはずじゃなかったのにな……」
自信を失って肩を落とした瞬間に、すかさず背中に強烈な喝が一発入った。
「こら! 落ち込むな! さっさと店じまいにするよ!」
母さんはすぐに陳列された品々を集め、仕舞い始めた。俺も先程の喝で少しだけやる気が戻り、母の横で店仕舞いの手伝いを始めた。
そしてその品々を見つめてこう思う。結局母さんが出した商品売れなかったな、と。
◆◆◆
「おーい。帰ったぞー」
一日で売れた商品の勘定をしていると親父が帰ってきた。
「おう、お帰り。進み具合はどうだ?」
「順調! 順調! この調子ならあとひと月ぐらいで完成だろうな。店の売れ行きはどうだ?」
「こっちは相変わらず微妙だよ。ちょいと赤字」
何気ない会話でため息が出る。
「相変わらずだな〜。まあ生活で浮いた分を使ってやってんだから別に良いんだけどよ」
親父は一家の大黒柱で建築業を営んでいる。一度の依頼で多くの収入を得て、また次の仕事に取り掛かるという生活を送り、家計を支えていた。
毎日日が暮れるまで力仕事から設計まで幅広い業務をこなしている親を俺は尊敬し、時には工事現場に昼飯を届けに行ったり、少し工事を手伝ったりすることもあった。
「あら、お帰りなさい」
「おう、ただいま。今日はいつもより早く帰れたんだ。予定の建設過程より早く進んだからな。とりあえずシャワー浴びてくるわ」
そう言って親父は足早に風呂場へ行った。
「俺たちはちゃっちゃと品を片付けて飯の用意にしようぜ」
「そうね」
俺たち二人は少しペースを上げて作業を進め、次の準備へ取り掛かった。
俺は毎日こんな生活を送っているが一年前までは学校に通っていた。だが学校という多くの人間が生活する場では俺の名前は少し目立ち過ぎた。
──ノア・ウィザード・アカルディ。大抵の人は俺のことをノア・ウィザードと呼ぶ。俺はこの夫婦に拾われた子らしい。
らしいというのもなんせ俺にはこの両親のもとで育てられた記憶しかなく、それ以前の記憶は何もない。ただ拾われたと聞かされて育ってきた。
そしてこの名前をつけられたがファンタジー感溢れるこの名前を馬鹿にしてくる島民が多かった。いや、ノアという名前自体は珍しいものではないが、ミドルネームのウィザードは父の母親、つまり祖母の旧姓だと聞いていた。
あの愉快犯の親父のことだ。珍しいこの姓を森の奥で拾った不思議な子につけることにしたのだとか。本人は悪気無く、本当に珍しいからとか特別な子にしたいからとかそういった考えもあったのだろうが、尖ってしまったこの名前は学校生活を送る上で厄を持ち運んでしまった。
同い年の子供はすぐにこの名前を面白がって馬鹿にする。それは次第にエスカレートし、最後に行き着いた果てはイジメだった。それに抵抗し、イジメに耐える生活を送ってきたが、ある日ついにいつものようにいじめてくる同級生を怒りのまま殴ってしまった。殴られた同級生は入院する怪我を負い、俺は学校に居場所をなくし、不登校となった。
両親も了承のうえだった。自分の子がいじめられていたのだ。それならばいっそ学校など行かなければいい。家では商売をしているから、そこに自分の居場所を作ればいいと親父も母さんも言ってくれた。俺はそれから日々家の手伝いをして生きている。だが心は満足こそしているが埋まらない部分もあった。それは自身の謎。誰にも分からない俺自身の謎だった。
夕飯を食べ、シャワーを浴びに行く。風呂場は親父が入った後だったため蒸気が立ち込めていた。バスタブに湯を溜めると金がかかるため週に二度程度しか湯船には浸からない。したがって今日はシャワーで済ませる。シャワーのレバーを取った自分の右腕をみる。俺の名前を決定付けた理由はこれだろう。
物心ついた時にはこの右腕に謎の模様のようなものが描かれていた。不思議なことにどれだけ洗っても消えないし、入れ墨のように彫られた物でもない。なぜこんな模様が右腕にあるのか。何か秘密があるのだろうと思いながら暮らしてきたが一向に何もわからない。親父に聞いても特に何もわからないと言う。隠し事が出来るほど器用な人間ではないし、逆に何も覚えていないのかと尋ねてくる始末だ。
過去の記憶がない俺は本当の親の顔も、自分の歳さえも分からない。
俺の今までの人生を例えるなら"あらすじが語られず、途中から始まった物語"だ。
この家での生活には満足している。親父は気さくで話してて楽しいし、母さんは少し怒りっぽいが俺を信頼して店番に置いてくれているし、大切にしてくれていると思う。だが心の奥底では自分が何者なのかを知りたいと思っている。そして今までの自分の人生を何も知らずこのままなあなあにして生きていきたくもない。
そしてもう一つ、この首元の傷だ。左側に歯のようなもので刺された跡がある。やられた時はかなり深かったのだろうか。今もはっきりと三本の歯が刺さり、そして跡を残したまま再生した証が鏡に写っている。
「全く、嫌なところに残されたもんだよな。この傷も」
この傷はどうやってついたものなのか、腕の模様が何なのかも分からない。何か過去を知ることのできるものは残ってないのだろうか。
そこでふと思いつく。親父は俺を見つけた時、丘の上の森で倒れていたと言っていた。森の近くにはローベンが住んでいる森小屋がある。あの森に何かあるのかもしれない。明日ローベンに会いに行ってみるか。そう考えながらシャワーを止め、俺は風呂場を出た。
風呂を出ると夕飯を食べていた親父から明日工事の手伝いをしてくれと頼まれた。明日はローベンの家に行く予定があるため、午後からなら行けると伝えて俺は就寝の準備に入った。
「明日どこか行くのかい?」
歯を磨いていると先程の話を聞いていたのか母さんが訊いてきた。
「ああ、ちょっとローベンに会いに行こうと思ってな」
「そうかい。じゃあ何かお菓子でも持ってきな。ストックはあるから」
「分かった。ありがとう」
そのお菓子も結局は売れ残りなのだが。時間は午後10時。いいぐらいの時間だ。これなら早起きもできるだろう。明日は午後から手伝いも頼まれているし。俺は二階の自室に入り、ベッドに潜り込むとすぐに寝てしまった。
◆◆◆
午前5時30分。窓のカーテンの隙間から差し込む朝日で清々しい朝を迎える。
朝に目が覚めるとまず最初に顔を洗うために一階に降りる。ジャーッという音を奏でる水は冷たく、夏の暑さを紛らわし、一日の始まりを感じさせる。
顔を洗ったら自室に戻り、パジャマを着替え、薄着の長袖を着る。夏なのに長袖を着なければならないのは本当に嫌だ。この右腕の模様を隠すため、俺は1年中長袖の服を着ていた。
「おふぁひょう、のは。ふぁんでぇもふぅふぁ?」
リビングに入ると親父が朝食を取っていた。自分で作ったのか木製テーブル上のランチバックにはラッピングされたサンドイッチが置いてあった。
「食べながらしゃべるなよ」
俺は横のキッチンに行き、パンをトースターに入れて焼き始める。
「今日はローベンの坊主のところに行くんだってな。あいつも多分暇してんだろうからしっかり遊んできてやれ」
「……なあ。俺って丘の上の森で倒れてたんだよな?」
俺は冷蔵庫のオレンジジュースをコップに入れて持ってきて、親父と面向かうように座って言った。
「ん? そうだよ。確か冬の寒い日だったけど母さんと一緒に材料の木を少し取りに行ったんだよ。そんで中腹ぐらいまで行ったらお前が倒れていたんだよ。お前は薄着だったから早くお前を連れて家に帰ったらすっかり材料のこと忘れててさ。いやーそのあとこっぴどぐ棟梁に怒鳴られてなあ。もうこの世の終わりかと思ったぜ。その月は収入ほとんどゼロの生活だったわ」
親父は基本的に笑いながら話を茶化す。どんな話題に対してもこんな感じであるため本心がどんなものであるのかは未だ検討もつかなかった。
「……何も隠し事なんてしてねーだろうな?」
疑いの目をかけながら俺は言った。親父は適当な人だが仕事、そして家族のためには真剣になれる人だ。もしかしたらいつも話をはぐらかすのは自分のことを思ってなのだろうかと俺は考えていた。
「なんだ? 疑ってんのかあ? 何も隠し事なんてしてねーよ。ほら、パン焼けたぞ」
狙ったかのようなタイミングでトースターが音を鳴らす。仕方なくパンをトースターから取り出しに行き、ジャムを塗る。オレンジジュースにマーマレード。地中海の柑橘のオンパレードだ。そんなことを考えつつ、もう一度話の続きをするためにパンを持ってきて座った。
「ま、俺もお前がどんな出自かっていうのはわからないけどさ、お前は自分のやりたいように生きればいいと思うぜ? お前を作っているのはその右腕だけじゃない。お前がいつもトレーニングをしていることも、店の手伝いや俺の現場での手伝いをしていることも、それはお前自身の意思で、誰にも縛られないお前にしかできないことだ。お前にしかできない、お前のやりたいことを貫き続ける。いつかそれが必ずお前の望む未来を作ってくれるだろうさ」
親父はチラと俺の右腕を見てそう言うと牛乳をぐびっと勢いよく飲んだ。
「珍しく長いセリフだったな。誰かの受け売りか?」
「いや、俺にしては珍しく俺自身の口から出たセリフだ」
ドヤ顔だ。この親父はすぐにカッコつけたがる悪い癖がある。
「んじゃ親父の名言だってことにしておくよ」
適当に返事をしてパンを食べる。やはり地中海産のマーマレードは美味い。
「おう! これからいくつか名言残すから名言集でも作っといてくれ。んじゃ俺はもう行くわ。ごちそうさん」
親父は洗濯した作業着の入ったバッグを持って家を出て行った。
「さて、俺も食い終わったし片付けするか」
親父の食器と自分の食器をキッチンに持っていこうとテーブルを見ると、親父は自分の昼食を置き去りにしていた。
「……やれやれ。まあ結局この後行くし、届けてやるか」
もう一度食器類をキッチンに運び、シンクで洗剤を使って洗い物を始めた。時計を見ると6時15分だった。
とりあえず洗い物終わったら洗濯物を干して八時ごろにローベン家へ向かうか。そう考えながら洗い物を済ませ洗濯機を回しに行く。
積まれた洗濯物を洗濯機に放り込み、スイッチを入れるとガガガッと音がして運転が始まる。洗濯機に異常がないことを確認し、店の品出しをしてから俺は母さんを起こしに行った。
「おーい、7時30分だぞー」
「んー……あと10分……」
「そう言って前ほっといたら1時間半は寝てただろ。ホラ、起きろって」
「分かった……分かったから……」
母さんはだらしなく大あくびをしながら起きた。
「おはよう。今日の品は出しといたから。俺は今から準備してローベン家に行くよ」
「ちょっと早いんじゃないの……?」
「後で親父の手伝いをしに行かねーといけねーからな。大丈夫だ。ローベンも早起きだから」
俺はちょうど体を起こした母さんをよそ目に自室に戻った。
自室で荷物を準備する。ボディーバッグの中身は昨日母が用意してくれたスナック菓子と財布、飲料水など。とりあえずあればいいものを常に持ち歩くようにはしている。そして出かける時用に貯めた小遣いで買った腕時計を身につけて荷物を持ち部屋を出る。
リビングに戻るとキッチンのトースターで母がパンを焼いていた。
「今から行くの?」
「うん。あ、そうだ。そこにあるサンドイッチ、親父が置いていったやつだ。後で俺が届けに行くから俺の分の昼飯も作っといてくれないか?」
「分かったよ。昼過ぎには帰ってくるだろう?」
「うん。あまり長居はするつもりはないから多分それくらいだ。じゃあ頼んだぜ。行ってきます」
「行ってらっしゃい。店と昼飯は任せな」
母さんはビシッと言う擬音が聞こえそうなガッツポーズで俺を送り出した。
ドアを開け玄関に向かった。玄関は夏の熱がこもっていて少し汗ばむ感覚を感じる。家の外に出るとまだ午前8時だと言うのに強い日差しが照りつける。
「やっぱりあっちぃなぁ」
俺の家は島で唯一の商店街の中にある。周りには最近少しずつ新しい店も立ち並んできた。これが恐らく店の客足が遠のく1番の理由だろう。
品揃えが良く、多くの人が立ち寄る他の店と比べると「ニーズ」は活気の面でも、品揃えの面でも、皮肉を交えて言うならば客の「needs」を満たしていない。それでも10年近くやっている店なだけあってそれなりに常連客もいるし、近所の人たちはよく立ち寄る。
みんな俺の名前を知っている人はヘンテコな名前のことを言ってくるがいい人たちばかりだ。名前について言われるのはウンザリだが、まあよくしてくれる人達がいるだけまだマシか。そんなことを考えているうちに商店街を抜け坂を登っていく。
この島の形は山で丘の上には森が広がっている。その森の入り口付近にローベンの小屋がある。なぜそんな場所に暮らしているのか、親が誰なのかも知らないがとりあえずローベンとは友達だ。
──1年前、学校を辞めて家の手伝いをするようになった頃にローベンは客として店に来た。平日の昼から来るものだから学校はどうしたんだと聞くとローベンは学校には行っていないと言った。
それから度々店に来るローベンのことが気になり、友達になって遊ぶ仲になったというわけだ。一度ローベンの家、もとい小屋に行ったこともあるがその時はローベン以外に誰もいなかった。どうやら義理の父と一緒に住んでいるらしいが。
坂を登っていくと少しずつ家も少なくなり自然が顔を出す。島であるために物流や島外に出るときも丘の下に家が集中しているためだ。オリーブの木が立ち並ぶ畑が増えてくる。
少し足が疲れたくらいのタイミングでローベンの家が見えた。
ローベンの家、もとい小屋は一軒家程度の大きさで木でできた築30年以上はあるであろう古小屋だ。
中のインテリアも古臭いレトロな代物ばかりだが、中はきれいに片付けられておりキッチンもある。ローベンと3ヶ月ほど前に話した時は料理にハマっていると言っていた。
“Ingresso”(イタリア語で玄関)と書かれた札がかかった扉をノックする。
毎度思うのだが、“玄関”ではなく“ようこそ”と来客を歓迎する札に変えたほうがいいのではないか。玄関ぐらい見れば分かるし。そんなことを考えていたが一向に返事は返ってこない。
「あれ? おかしいな」
ドアノブをとって軽く引くとドアが開いた。鍵はかかっていない。
「おーい。入るぞー? ローベン」
そう言って家の中に入っていく。家には灯りがついていなかった。玄関とリビングの間にはドアがある。少し埃っぽい匂いを感じながら進んでいき、リビングの前にまで行くと少し物音が聞こえた。
キッチンで料理でもしているのだろうか。近づいていくとドアの隙間から青白い光が見える。確実に料理をしている様子ではない。手を乗せたドアノブは何故かとても冷たいものに感じた。一瞬迷ったものの結局好奇心に負けて俺は隙間を作る程度で少しだけドアを開けた。
扉の先の景色は見慣れない不思議な光景だった。だが、これまた不思議なことに抵抗感は無く、何故か見慣れた光景の気もした。ローベンはリビングの中央に立って何やら手に杖のような物を持っている。そして片手に本を持ちながら杖を下に置いた薔薇に向けて何かを唱えている。
薔薇はその何かの言葉に反応するかのように花好きの俺としては理解し難い変貌を遂げていく。
「青い……薔薇?」
見覚えのあるピンクの薔薇の十三本はその色素を不可能なものに変えられていく。静かな青い粒子が宙に溢れ、その当たり前のピンク色があり得ない色へと染められていく。この地域では珍しく、俺は別に13という数字を不吉だとは思わないが、今目の前で起きている不可解な現象と一切の音が生きていない静寂を目の当たりにすると体が震える錯覚に陥る。
その状況に見入っていた。だから俺が出す音などは気にしなかった。覗いていた細い視界の中で急に視点を集中させていた杖がこちらに向けられる。
「……誰かそこにいるのか?」
それはゆっくりとこちらに向き直り、発せられた敵意に体が跳ねる。ローベンの声色はいつものような穏やかなものではなく、冷淡で何かを見透かすような低い声色で。
「……俺だよ。ローベン」
……ここで引き返しても意味はない。腹を括って扉を開けてリビングに入る。中は相変わらずの古臭いインテリアに囲まれ、そして以前来た時と明らかに違うのは中央のスペースに置かれた昨日の友情の証だ。
「ノア? もしかして……今の見た?」
暗くて表情はあまり見えなかったが声色から少し驚いているように感じた。
「今見てんだろ。そこにある十三本の不可解な青い薔薇をよ」
突き放すように言って、警戒心からローベンの顔を睨む。
「そ、そうだね……はは、こりゃ隠しきれないや」
癖の頬を掻く仕草も杖を持っている姿では何故か物騒な人間を前にしているような気持ちになる。
「隠しきれないってなんだよ? お前が魔法使いってことか?」
「……ああ、そうだ。君の友達であるローベン・ハーバーは不思議な力を持つ人間──『魔法使い』だっていうことさ」
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