ER:Birth of the time (イア・バースオブザタイム)

NAO

プロローグ 

「ハア……ッ! ハア……ッ!」


 体が震える。これが恐怖か? 恐怖とはいったいなんなのだろう? 


 何もわからない。何もしらない。そんなものは考えたこともなかった。


 暗い。真っ暗な闇だ。外の熱気がここまで伝わってくる。焼けていた。何もかもが、今まであった当たり前が、何も分からない業火によって無慈悲にも灰になっていく……その様をこの目で見た。


 ここから出たい。早く出たい。熱い。苦しい。そんな言葉ばかりが、今まで言ったこともないそんな言葉を無性に口にしたくなる。だけど──出られない。あの子にそう言われたから。


 ──ここにいてね。絶対に助けが来るから……泣かないでよ。男の子でしょ? 大丈夫。わたしは大丈夫だから──。


 そんなことはないだろと言いたかった。だけどその言葉を告げる間もなく扉は閉じられた。その言葉を本当に僕は告げられただろうか? 意思のないからの人形が口を開けたのだろうか? それももう今となっては考える必要さえもない。あの子に言われたように、僕はこの暗闇に身を隠すことしか出来ることはないのだから。


 ……もうどれだけ時間が経ったのだろうか。暗闇に隠れ、外の熱気はより強さを増したように感じる。少しずつ意識が薄れていく。いまだに頭の中では「わからない」がついて回る。今日だって僕はただ遊んでいただけなのに。それしかないからそうしていただけなのに。


 ──なんで? なんで? なんでそれだけ? なんで、僕には何もない?


「はっ──……あ──」


 喉が焼け切れてくる。通り抜ける熱気は気道をその熱によって熱傷させる。ヒューヒューという音が苦しく、なんとか息を吐き出そうと必死になって空気の通り道を押し上げてくる。重苦しい暗闇の空気にその音が反響し、深い深い地底に落とされたような感覚に陥る。


 ふと思う。今までの自分を。僕は何をしていたのか。何ができたというのか。僕にあったのは何も許されない絶望的な束縛、いや、そうだ。孤独だった。ここでは息を吸うことも食事も遊ぶことさえも誰も気にしない。話しても返事はない。だから僕は僕だけの世界に生きる。僕にあったのはそれだけだった。


 いつからか話しかけることをやめた。もはや話し方さえも忘れた。人の存在を忘れた。何もかも忘れることにした。だって誰も返事はない。誰も僕を見つけてくれない。そんな孤独の中から声を出すことさえも徒労であると思ったから。


 だけどあの子たちは違った。僕を見つけてくれた。僕が好きだったあの赤い花々のようにふわりと柔らかく、僕を包み込んでくれた二輪の薔薇。初めて僕は生きているのだと自覚した。だからそれを忘れないように生きてきた。だけど少し恨めしい。だってそのせいで僕は今こんなにも苦しいのだから。


「ア──ツ──い……?」


 自分の言葉さえも理解できなくなってきた。今までの錆に塗れた思考では一つ一つの言葉にさえ違和感を持つというのに、部屋を埋め尽くすこの熱さが錆を溶かし、より広くその膜を張る。


 ──本当にここにいればいいの? なんで苦しいなんて思うの? 帰ってきてよ。助けてよ。ぼくをひとりにしないで。もうまっしろなせかいはいやだ。たすけて。たすけてよ……かみさま……。


 唐突に暗闇が切り開かれた。朱い光が差し込む。それは紛れもなく神様の救いなどではなかった。入り込んできたのはこの世のものとは思えない熱気と気を狂わされるドロリとした鉄臭さ。赤くて赤くてべったりと流れ込んでくる粘性の液体。そしてこんな暗闇の中でも目も当てられぬほどにドス黒い欲望を抱え込んだ真っ黒な獣の姿。


 体が硬直する。意識は飛ばない。飛びかけても本能が飛ばせない。間違いなく死ぬ。これは死だ。数え切れないほどの屍を喰らい尽くしても飽き足りない死というモノだ。


 ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。その目が繋がる。 


 ──笑っている。こんな目をする獣がいてたまるか。違う。こんなの、こんなの、イキモノなんかじゃない──。


「う……っあぁ……」


声にもならない唸り声が絞り出される。死を前にして黙り込める者がいようか。少なくとも自分はそうじゃない。なんで今更になって死を恐れる。この世界にいて僕の世界にいた僕ならばそんなものにさえ興味はないというのに──


「……あ──」


 そうか。そうだった。僕はもう僕の世界を持っていない。僕はあの二人みたいにこの世界で生きたいと思ったのだった。ああ──なんて馬鹿なんだ。こんな世界に来なければ、この死さえも何も感じずに、泡が消えるみたいな容易さですぐに終わることができたのに──。


 獣の口が開く。今までに何人喰い殺してきたのか。下顎が二つに分かれた歪なその口には真っ赤なモノが滴り落ち、喰うための牙が隙間なく敷き詰められている。笑い声が聞こえてきた。誰のものかはわからない。僕かもしれないし、このイキモノかもしれない。とにかくもうこの体は限界だった。


 首元にその牙が当てられた。甚振るようにゆっくりと食い込んでくる。焼けるような感覚が走り出す。刺されているような感覚ではなく鉄板に皮膚を焼かれるような吐き気を催す生き地獄。もう、終わる。生命の停止を告げる音が鳴り響く。


 ──地獄は終わった。もう死んだと思う。だけどそう思えた時点で──僕はまだ、生きている。


「第一級討伐対象、確認。これより粛清に入る。被害者は■■■■・■■■■■■と認定。親族は死亡により特例措置として局長命令権使用。彼に第一禁忌魔法の用意を。医療局にて治療を行なったのちに早急に儀礼に取り掛かれ。今宵を逃したら次はない。以上」


そこには白い狩人がいた。暗闇を照らす純白にして一切の穢れを持たない。それがあまりにもこの空間には不釣り合いで、恐ろしい。


 こちらに彼は手を向けた。僕の顔も見ずに真っ直ぐに獲物を捕らえたまま。それだけで僕はこの地底から地上へと


 ふらついた足が地に着く前に先程の狩人が着ていた白い服と同じ服装の女性に抱き抱えられた。


 その顔はあまりにも冷たく、完成された人形のような作り物独特の美しさに満ちていた。そして彼女は僕を抱えたまま空を飛び、今までの当たり前が終わりを告げた光景を目の当たりにする。


 そこにはもう美しい花の庭はなかった。赤い炎をつけてそれは延々とその魔の手を伸ばすだけの業火となるだけだった。


 そこにはもう人々に溢れ、活気に溢れる街の姿はなかった。活気は狂気へと反転し、黒い影たちが建物を燃やし、人を殺し、叫び──……ああ、これが地獄か。


 空に浮かぶ白銀の月面たいよう。星々はその光にかき消され、もう世界は様変わりしたのだとこの世界に住む人間全てにその事実を突きつけた。


「ぼく、しぬの?」


 何を訊いたのだろう。もう本当に無理。前が見えない。真っ暗な闇が視界に入り込んでくる。焼け焦げた匂いが身を包む。それはこの体が死を間近にしていることを示唆している。拾った命もここで潰えるかもしれない。また恐怖が身を包む。


「死にません。命令ですから」


 冷たい声。その声は心というものが無いただの機械音だ。それはなんだか嫌で、でも何故だか親しみを感じるような──。


 そこからは白い世界が続くだけ。もう僕は僕じゃない。全てはあの暗闇の中にある。それを見つけるかどうかは君次第だ──未完成の抹消者イレイジャーよ──。

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