Ep.19

「じゃ、行ってくるね」

 翌朝。キャリーケースを手に玄関で振り返る泰彦に、

「お気をつけて―」

「お土産よろしくねー」

 花音と小春がそれぞれ手を振って、見送りの言葉をかける。満足げに一つ頷いた泰彦は、ドアを開けて出掛けて行った。

 自重で閉じたドアが、小さなラッチ音を奏でた。家の中に残っているのは、小春と花音の二人だけだ。

 二人っきりである。

『…………』

 気まずさか、気恥ずかしさか。肩を並べたまま、二人は無言で立ち尽くす。ちらりと相手の横顔を覗いてはみたものの、それだけで顔が熱くなり、反射的に目を逸らしてしまった。

 これまで花音が家に来たときはいつも父がいた。とはいえ、部屋の中や家の外で二人きりというシチュエーションは、何度もあったことだ。

 けれど。初めて互いをはっきりと恋人として認識した今になって、この状況が酷く落ち着かなく感じてしまうのだった。

「……あ、あー、その、オレさ。昨日来たときは、一泊させてもらう用意しかしてなかったから」

 やがて、花音がぎこちなく喋り始めた。案の定というか、明後日の方向を向いたままだ。

「う、うん」

「ちょっと、家帰って着替えとか取ってくる。昼前には戻るからさ」

「分かったわ。その間に掃除とかして待ってる」

 互いに顔を合わせないまま、努めて平静を装いながら言葉を交わす。小春の言葉に後頭部で頷いた花音は、右手と右足を同時に出しながら靴に足を通し、振り返らずに外へ出ていった。

 父に続いて彼女を見送り、一人残された小春は、花音が出ていったドアを何気なしに眺めながら、

(……てことは、やっぱりしばらくうちで暮らす気なんだ)

「~~っっっ!」

 意識した途端、また顔が発火した。

 昨日からこんなことばかりしてるな、と頭の片隅を妙に冷静な思考が走り抜けていく中、音を立てて頬を叩いた小春は、踵を返して洗面所に向かった。

 まずは顔を洗って頭を冷やす。そして家事をさっさと終わらせる。

「いつも通り、いつも通り……」

 うわごとのように唱えながら家を練り歩く彼女の姿を見た者は、幸運なことに誰もいなかった。


 昼前、小春が家事を終える頃に、大きめのバッグを持った花音が帰ってきた。

 簡単に用意した昼食を済ませた後は、普段と同じようにテレビを見たりゲームをしたり、夕方に買い物に出かけ、夕食を作って食べた。片付けをし、別々にお風呂に入って、上がった後。

 小春と花音は二人、肩を並べて小春のベッドに腰掛けていた。

「…………」

「…………」

 お互い、膝に置いて固く握りしめた拳を、穴が開くほど睨んでいた。当然というか、それに意味があるわけではない。ただ何もしていないだけだ。

 時折、微かな身動ぎに合わせて衣擦れの音がした。それが耳に着くくらい静かだったのだが、同時に二人が認識できていたのは、自分の心臓の鼓動だけだった。

 唐突に、ギッ、とベッドが軋む。動転して肩を跳ね上げた花音が、反射的に小春の方を見た。

 気づけば、僅かに身体を傾けた小春が、熱っぽい瞳で花音を見つめていた。

「花音……」

 彼女が振り向いたのに気づき、小春が名前を呼ぶ。掠れ消えそうなほど小さな、躊躇いがちな呼び声に、花音は言葉もなくただ見つめ返す。

 タイミングを計るように、勇気を振り絞るように小さな息継ぎを繰り返した末、小春はやはり蚊の鳴くような小声で、


「キス、しない……?」


 返事はなかった。

 期待するような眼差しの小春に向けて、ゆっくりと花音の手が持ち上がる。反応を確かめるように、細い指が頬を撫で、手のひらが触れる。小春の顔を引き寄せながら、花音もまた自身の顔を寄せる。

 ゆっくりと距離が縮まる最中、小春の瞼が自然と落ちた。軽く閉じられた口が、ねだるように震える。その唇に、花音はそっと唇を重ねた。

「ん……」

 柔らかい。そして熱い。

 触れるだけのキス。それでも、自分と小春の輪郭が重なったような不思議な昂揚が、花音の胸を高鳴らせた。制御できないような暴れ方ではない。心臓が一回り大きくなったような、意外にも落ち着いた鼓動を感じた。

 少しだけ唇を強く押し当てる――いや、小春の方が押し当ててきた。驚きながらも、花音は小春の頬をもう一度撫でた後、その手を彼女の背中に移した。抱き寄せる腕を、小春は拒まなかった。

「ふぅ……っ」

 微かに漏れた甘い鼻息を聞きながら、花音の手が小春の背中を上下に滑る。落ち着かせるような動きに、小春も身体を預けていた。

 気が遠くなるほど長い口づけの末、どちらからともなく唇を離す。薄く開いた瞼の隙間から、小春の瞳が覗いていた。微かに開いたままの唇からは、キスの余韻の熱を宿した息が零れた。

 花音がごくりと生唾を呑んだ。

「……小春」

 呼びかける声に、半ば放心しながら小春が反応した。フラフラと持ち上がった視線が、花音のそれと重なる。

 熱病にも似た、朦朧とした小春の視界の真ん中に、花音の瞳があった。宝石のような、蒼穹のような、大海原のような青。そこに焦点を結んだ瞬間、フラついていた意識が束縛される。

 花音の表情にも緊張が浮かんでいた。それでも彼女は躊躇わず、はっきりと言葉を口にした。

「小春。続き、してもいいか?」

 催促のように、背中にあった花音の手が小春の肩に移動した。同時に、花音の身体が少しだけ傾ぐ。

 小春が頷けば、すぐにベッドに押し倒せる。そんな姿勢だ。

「ぁ……」

 花音の言う「続き」が、単なるキスではないことは分かっている。もっと先の、恋人同士のすること。それを理解した上で、小春は一度は伏せかけた目を、もう一度花音に向けた。

 夜、寝室、ベッドの上でキスをせがんだのは、『そう』なることも予期してのことだ。期待してのことだ。食い入るように、胸中の衝動を滲ませながら自分を見下ろす眼差しにも、恐怖は感じない。

 返事は上手く言葉にできなかった。小春は口を閉ざしたまま、ゆっくりと首を縦に振ろうとして――不意に、明後日の方向に顔を背けた。

「や、やっぱりダメ……」

「…………は?」

 小声で小春が否定の言葉を吐いてから遅れること丸一分、ようやく声を絞り出した花音の表情は言いようもないほど困惑露わに歪んでいた。

 小春はやはり、彼女を見まいとしながら、

「わ、私たちまだ高一だしっ、その、そういうのはまだ早いっていうか、ダメっていうか……あの、とにかくダメだと思うからっ」

 理屈も何もない拒絶の羅列。口にしているうちに、だんだん小春の頬は赤みを増し、真横を向いていた顔は、身体を捻りながら後ろへ後ろへ回っていく。

 茫然自失で小春の肩を手放した花音だったが、その目に再び光が灯るのに合わせ、面貌は徐々に赤く――多分、小春とは違う感情で――塗り替えられていった。

「お……おまっ、ふざけんなよォォォォ!?」

 がっしりと小春の肩を掴みなおし、前後にがくがくと揺さぶりながら、花音は力の限り叫んでいた。目を爛々と輝かせながら、

「こんな思わせぶりなシチュで、ここまで煽っておいてお預けってどういうことだ!? こっちは小春の全身余すところなく堪能しながら、どうやって善がらせてやろうかって楽しみにしてたんだぞ! オレの期待を返せ!」

「わ、私だってその気がなかったわけじゃ……って、ナニしようとしてたの一体!? 変態! すけべ! えっち!!」

「彼女とやらしいことしたいと思って何が悪い! ちくしょうっ、そっちがそういう態度なら、オレにだって考えがあるからなっ」

「ちょっと!? 何でいきなり服脱いでるの!?」

「おらっ、恋人の半裸だぞ! 見ろこの玉の肌、興奮するだろ! しろっ、してくれ!」

「しなくはないけど! しなくはないけど、別の何かが凄い勢いで冷めそうだからやめてッ!!」

 ベッドの上でどたばたとのたうち回りながら、二人の言い争いは続く。

 結局、深夜まで小春の部屋の灯りが消えることはなかった。

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