Ep.18

 泣き疲れ、ちょっと頭が冷えたところで小春が思ったのは、「今日の晩御飯どうしよう」という、さっきまでのやり取りとは無縁の、ごく庶民的な問題だった。

 既に日は傾きかけている。今から帰りがけに買い物をして作るとなると、それなりに遅くなってしまう。とは言え冷蔵庫の食材だけで何が用意できたものか――と悩みながらスマホを取り出してみると、知らぬ間に父からメッセージが届いていた。

『夕食は三人分用意しておくから、もしよければ花音ちゃんも連れておいで』

「だってさ」

「……小春の父さん、何つーか、すげぇ気が利くな」

 顔を見合わせ、そんな言葉を交わしてから、二人は小春の家に帰っていった。

 家に着いたときには、既に食卓に三人分の食事が並べられていた。小春と花音を見た泰彦は、一度淡い微笑を見せた後、何も聞かずに座るように促した。

 何事もなかったかのような三人での食事。今までにも何度か経験したのと、何も変わらないひと時。その尊さが、一際胸に沁みるようだった。

「そう言えば花音ちゃん。小春から聞いてるかもしれないけど」

 その泰彦が、食後のお茶を啜りながらそう切り出した。反射的に身構える花音だったが、小春との仲に改めて言及するような口ぶりではない。首を捻る彼女に、泰彦は苦笑じみた吐息を漏らした後、

「僕、明日からしばらく家を空けるから、小春のことよろしくね」

『…………』

 さらっと告げられた言葉に、花音はおろか小春も言葉を失い固まった。彫像と化した二人の少女を前に、泰彦一人がのほほんと湯飲みを傾ける。

『は、はぁぁぁぁぁぁ!?』

 同時に再起動を果たした二人が、やはり同時に叫んだ。だが目を白黒させる二人を余所に、泰彦が小春に向ける視線は冷たい。

「「は?」じゃないよ小春。「弟の撮影旅行に付き合うから、その間いないよ」って前に言っただろう? カレンダーにも書いてあるし」

「そんなっ!?」

 弾かれたように、壁にかかったカレンダーに目を向ける小春。確かにそこには、「父、出張」とはっきり書かれ、一週間に渡って線が引かれている。他ならぬ小春の字だ。

「そんな、こと……言われてみればあったような……」

「忘れるか普通?」

 気まずさのあまり縮こまる小春を、花音のジト目が容赦なく追い立てた。泰彦との十字砲火に、小春は両手を掲げ白旗を上げるしかない。

 しばしの間を空けて、泰彦はわざとらしく溜息を吐いた。そしてその顔を花音に向け、

「こんな娘だけど、どうかこれからもよろしくね」

「あーはい。任せてくださ――ん、んん!?」

 軽い調子で相槌を打ちかけた花音だったが、さっきと違う「よろしく」の質に気づき、ひっくり返りそうになった。彼女に遅れて同じことに気づいた小春も、爆発でも起きたように急に顔が真っ赤になる。

 泰彦の表情は変わらない。優しげな微笑を湛え、小さく笑い声を零すと、花音にぴたりと据えた視線は微塵も動かさず告げた。

「よろしくね?」

「は、はい」

 初めて彼から感じたとんでもない圧に、花音の返事が掠れる。それでも、聞き届けた泰彦は満足そうに大きく頷いて、もう一度湯飲みを傾けた。

 それからふと思い出したように、

「ああ、それと花音ちゃん。僕がいない間、うちで寝泊まりしてくれていいからね」

 へぶしッ!

 言われた瞬間、小春と花音が同時にお茶を噴き出した。激しくむせる花音の傍らで、小春は顔を真っ赤にしながら父に食ってかかった。

「おおお、お父さん!? 何言い出すのいきなり!」

「別にいいだろう。普段からよく泊りに来てるし」

「一泊しに来るのと一緒に暮らすのとじゃ全然違う! それもうほとんど同棲じゃない!」

「いつかのための予行演習だと思えばいいんじゃない? 何なら、そのうち空き部屋掃除して使ってもらってもいいと思ってるし……勿論、花音ちゃんにも強要はしないけどね」

 ぎゃんぎゃん噛みつく小春を適当にいなしつつ、泰彦が花音に水を向ける。

 二人のやり取りの間に息を整えていた花音は、自分に向けられた泰彦の目をじっと見ていた。次いで、小春に目をやる。茹った顔色のまま全身を強張らせ、彼女の視線が花音と泰彦の間を往復した。

 無言のまま、一体どんな思索を巡らせたのか、花音は最後に泰彦へ視線を戻すと、

「不束者ですがよろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

 ぺこりと一礼し、真面目な声で言う花音と、それにお辞儀を返す泰彦。

 二人の結んだ契約に、小春は一人、臨界を突破した羞恥を知らしめるように机を叩き、声なき悲鳴を漏らしていた。

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