Ep.17
「――そうだ、だから私……」
我知らず、小春は涙を流していた。
胸の内を吐露するうちに、まるで霧が晴れるように明瞭になった記憶。花音と交わした言葉を思い出し、小春は言葉を失った。
唖然としているのは小春だけではない。花音は、小春以上の驚きを露わにしていた。瞼が裏返りそうなほど目を見開き、凍りついたように動きを止めた。
「小春、覚えて……いや、何でお前、その事!?」
追及も、動揺のあまり千々に刻まれ、半ば形を成していない。
一方、小春はなおも涙を流しながら、テーブルに上体を乗せた。幽鬼のように持ち上がった両手が、花音を求めて宙を泳いだ。
思い出したのは、突然湧いた記憶はそれだけだ。花音に告白される前の日々も、その後の日々も、そこに何があったかは全く分からない。本来であれば、小春が知るはずのなかった過去、実際にはそれでも、あの夕暮れの教室で交わした言葉だけで十分だった。十分過ぎた。
「だから私……花音がそう言ってくれたから、私……」
震える手が花音の肩を捉える。弱々しく絡みつく指の感触に、花音が息を止める。
彼女が緊張の面持ちで見つめ返す中、小春はくしゃくしゃに歪めた顔を隠すように、一度顔を伏せた。しばらくして、もう一度顔を上げる。
その口元には、酷く不格好な微笑が浮かんでいた。
「花音」
「う、うん」
「私、花音が好き」
するりと、引っかかることなく滑り落ちてきた言葉に、花音の息が止まる。潤む瞳で彼女を見つめながら、小春は続ける。
「私の辛さに寄り添おうとしてくれたあなたが好き。私のこと、分かろうとしてくれたあなたが好き。私と一緒に、『普通』の恋をしようって言ってくれたあなたが好き。私に――「好きだ」って思わせてくれたあなたが、好き。大好き」
花音の肩にあった小春の手が、彼女の顎に、頬に、髪に触れる。まるで花音の輪郭を確かめるように。そこに在る彼女の存在を確かめるように。持て余した感情を、どうにかして発散するように。それは恋慕であり、不安でもあった。
濁流のように暴れ、重石のように重い感情を懸命に飲み下し、小春は再度口を開く。その声が少しだけ震えた。
「だからもし、花音がまだ私のこと好きでいてくれるなら……あんなに冷たい態度をとった私を、まだ見放さないでいてくれるなら」
言葉を紡ぎながら、思う。今から言おうとしていることの大きさ。口に出すことをイメージするだけで、どっと汗が噴き出そうになるほどだ。
花音も、松葉も、この道を通ったんだ。今から自分も同じ道を辿るんだ。漠然とそう思いながら、小春はそれでも躊躇なく、むしろ躊躇することを恐れるが故に、はっきりと告げた。
「お願い、もう一度、私と恋人になってください」
口に出した瞬間、心臓が縮み上がるのを感じた。
拒絶される未来は、どうしたって否定できない。その可能性は、どこまでも容赦なく胸を締めつける。それでも、その恐怖と苦痛を味わうとしても、言わないという選択肢はなかった。
できること、すべきことを残したまま後悔するのは嫌だった。
「……ばぁ~か」
そんな声が降ってきたのは、どれくらい沈黙を重ねた末だったか。花音に目を向けていたはずなのに、いつの間にか不安と葛藤に視界を塞がれていた小春が、ハッとして目を見開く。
彼女の眼前。今まで見た誰よりも、どの瞬間に見た彼女よりも、美しく笑う花音の姿があった。
「もう一度も何も、オレはずっと小春の彼女だよ。勝手に辞めさせるなっての」
そう言って、花音が小春の頭に手を置いた。少しだけ荒っぽく髪の毛を掻き回される。為されるがままの小春に、花音は微笑を向けたまま、
「けど、うん。やっぱ嬉しいな。小春とちゃんと恋人同士になれるのは嬉しい。オレばっかり好きなんじゃなくて、小春もそう、言ってくれる、のは……」
語る花音の声が、不意に掠れた。切れ切れに言葉を紡ぐ彼女の肩が震える。小春が見守る前で、その微笑が微かに歪み、目尻に雫が浮いた。
嗚咽が漏れる。言葉にならない声とともに、花音の瞳からも涙が流れ始めた。呼応するかのように、小春の目頭も熱を帯びる。どちらからともなく引き寄せられるように、二人は距離を縮め、抱き合った。
「良かった……本当に、良がっだ……!」
「うん、うん……私も」
互いの肩に顔を埋め、堰を切って泣き咽ぶ。それまでの鬱屈を、積み重ねた不安を全て洗い流すように。泣いて泣いて、抱き寄せる腕に力を込めて、相手の身体を拠り所にしてひたすら泣いた。
部屋にこだましていた声が聞こえなくなったのは、だいぶ時間が経ってからのことだった。示し合わせたわけでもなく同時に身体を離した二人は、泣き晴らした顔で見つめ合うと、
「……改めて、よろしく頼むな」
先に言ったのは花音だ。小春はそれに、不器用に微笑みながら頷き、
「うん。よろしくね、格好良くて可愛い、私の彼女さん」
身を委ねるように、花音の胸に抱きついた。
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