Ep.16

「だから……だから私は、『普通』に誰かを好きになりたいの……っ!」

 話しているうちに、とめどなく涙が溢れてきた。止めることはできず、だけど少しでもそれを隠したくて、私は両手で目元を覆う。

「あの人たちがいたから、誰かを好きになれないなんて思われたくない! おかしくなったとも思われたくない! 私自身だってそんなこと思いたくない! いつか素敵な恋をしたいって、ずっと思ってたの! それくらいのささやかな夢、叶えたっていいじゃない! だから、だから!!」

 流れる涙と比例するように、感情が堰を切ったように溢れ出た。次々言葉となって口から飛び出していく自分の心境を、制御することができなかった。膝をつき、腰を折り、うずくまるようになりながら、私は叫ぶように感情を吐き出すことしかできない。

「だから――お願い、私に「好き」って思わせてよ! 誰だっていい、私が心から好きになれる誰かがいてくれるだけでいいの! ありふれていたっていい、ただ綺麗な、誰にだって胸を張れる『恋』がしたい、それだけ、それだけなのっ、それだけで、いいからぁぁ……」

 肺に空気が無限に溜められないのと同じように、どんな激情にだって限りがある。言いたいことを言い切る頃には言葉も掠れ、息を切らしながら、私は一層背中を丸めて咽び泣いた。

 目の前にいるはずの花音の姿も見ることができない。一言もなく黙ったまま、私の醜態を見つめながら、彼女は一体何を思っているだろう。そんな思考がちらりと脳裏を過り、しかし深く考える気力はない。

 うずくまったまま泣きじゃくっていたのは、多分二分や三分じゃ利かないだろう。無力さと惨めさを目いっぱい味わいながら、それでも胸の内が少しだけ落ち着きを取り戻してきた頃。


「すげぇな、小春は」


 頭の上に手が乗せられる感触がした。

「ぇ……?」

 掛けられた声に、応える言葉が見つからない。顔を上げることもできない私を余所に、花音の手は私の髪を幾度も撫でた。

「そんだけ話してて辛そうな目に遭って、まだくじけないなんて、普通のやつには出来ない。「恋がしたい」なんて口に出せるやつなんかいない。他人のせいにして諦めちまった方が、諦めるとこまでいかなくても、上手くいかないのはそいつらのせいだって思った方が、気は楽でいられるだろ。そうしないのは、小春がすげぇってことだ」

 優しい指の感触とともに、穏やかな言葉が降ってくる。じわりと胸に染み入ってくる温かさが、枯れたと思っていた涙を再び湧き上がらせる。

 ふと、促すように花音の手が頭を離れた。促されるままに、私は顔を上げた。

 目に入ったのは、窓から差し込む西日の色。茜色に染まった教室・・の中、制服姿の・・・・花音が、私を見下ろしながら微笑んでいた。

「小春。なぁ、小春」

 呼びかけながら、花音の手が今度は私の額に当てられた。前髪を押し上げ、まるで私が顔を伏せないように押さえるように、そっと力が入る。ぼうっと見つめ返す私の目の前で、花音の微笑に緊張が過った。

 それを怪訝に思う間もなかった。彼女の表情の変化に気づいたときには、花音の言葉は既に放たれていた。

「好きだ。オレ、小春が好きだよ」

 いつもより上ずった声で。頬を薄赤く染めて。そう告げた花音の顔が、目の前にあった。

 私は何も言わなかった。言えなかった。対して花音は、まるで言い足りないと言わんばかりに次々言葉を繰り出してきた。

「女同士で、って思うか? 思うよな。でもさ、オレは小春の可愛いとこも凛々しい顔してるとこも好きだし、辛くっても前を向ける強いとこも好きだ。その源になってる、クソ真面目なとこも好きだよ。それは男だからとか女だからとか関係ない、小春が持ってる魅力に惹かれたのは、性別なんて関係ないんだ。だから、オレは小春を好きになったことをおかしいなんて思わない。おかしいなんて誰にも言わせたくない」

 私の額に右手を添えたまま、いつの間にか花音の左手が私の手に重ねられていた。その手が少しだけ震えているのが分かる。松葉に告白されたときとは違った。言葉を通じて、触れた手を通じて、彼女の心に触れられているような気がした。

 花音の想いを、心地よく感じる自分がいた。

「オレ、頑張るからさ。小春に好きだって思ってもらえるように頑張るから。だからもし、いつか、小春がオレのこと好きになってくれたら、その時は……」

 そこまで言って、唐突に花音が言葉を切った。少し待っても、続きを口にする様子はない。

 怪訝に思ったけど、目を見て分かった。私がちゃんと聞いているか確かめたいようだった。ここまでずっと一人で喋っておいて今さら、なんて考えもしたけど、要はそれだけ大事なことを伝えたいのだろう。

「……その時は?」

 花音の言葉を繰り返した。長らく黙っていたせいか、少し声が掠れてしまう。けれど、彼女も気にする余裕はなかった。

 電流が走ったように、一度肩を震わせた花音は、固い面持ちで唾を吞む。そして慎重に息を整えた。私の返事を待っていた割に、心の準備は完了しなかったらしい。

 見守る私の前で、何度か深呼吸した花音は、ようやく外していた視線を私に合わせ直した。斜陽の中でいつも以上に輝く、深い青の瞳。目にした瞬間、まるで海に飛び込んだような錯覚に陥った。

「あ……」

 怖くはなかった。全身を包む冷たい水の揺らぎ。ふわりと体が浮かび、支えられるイメージ。火照った肌を、乱れた鼓動を落ち着かせる、不思議な感覚だ。

 呆けたのは一瞬。すぐに意識は現実へ帰ってくる。固く閉ざされていた花音の唇が綻び、声が滑り落ちる瞬間に――


「――その時は、一緒に証明しようぜ。オレは小春が好きで、小春はオレが好きで、それが『普通』のことなんだって。誰に隠す必要も、恥じる理由もない、オレたちはそういう恋をしてるんだって、一緒に見せつけてやろうぜ」


 世界の天井が抜けたようだった。

 それくらい、今までとは何もかもが変わったような気持ちだった。夕日の色も、空気の匂いも、息遣いの音も、床の感触も、全てがその瞬間から未知のものに置き換わっていた。

 花音から目が離せない。他の全てがピンボケして霞む中、彼女の姿だけはくっきりと像を結んだ。

 何より、鼓動が強く跳ねている。感じたことのないくらい強く、早く、熱く、けれど規則的で自然に。血潮が赤熱し、肌が火照り、思考は加速して、より明瞭に。自分の身体と心が昂っている――正しく・・・昂っているのを感じた。

「ああ……」

 恍惚が声となって零れた。

 やっと分かった。やっと理解した。今のが、これが、ずっとずっと欲しくてやまなかったモノ。どんなになってもあこがれ続けたモノ。時には諦めかけ、それでも手にする日を、ずっと待ち続けたモノだ。

 これが、この気持ちが、私の――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る