Ep.15

 多分、松葉くんが意図したことではなかっただろうけど、彼が私に告白してフラれたという話は、尾びれ背びれを加えながらあっという間に広がっていった。

「呉さん、ホントに松葉くんフッたらしいよ」「自分のせいで松葉くんに怪我させたようなものなのに、さらに恥かかせるとか、悪いとか思わないのかな?」「やっぱ越前とデキてたんじゃない?」「松葉が気に入らないから越前をけしかけたって?」「あり得るー。じゃなきゃ松葉くんに告られて断ったりしないでしょ」

 本当に好き勝手、色々と言ってくれる。

 私の意志は置き去りに、噂が広がるほどに周りの反応は冷たくなっていった。「そんなことあるわけないじゃん」と言ってくれる友達もいたけれど、噂をする人たちが敵意を増していくほどに、擁護の声も萎んでいく。

 どうやら、私が松葉くんの告白を断ったのは、皆にとってそれほど不自然なことだったらしい。松葉くんがそう思っていたように、取り敢えず付き合ってみるのが普通だったのだろうか。それとも、告白されたらその相手を好きになるのが普通だったのだろうか。誰でもではなく、松葉くんなら、ということだったのだろうか。私には全く分からない。

 噂は学校に留まらない。家の近所でも、傷害事件と私との関係を囁く声は聞こえてきた。学校も、地元そのものも、居心地の悪いものに変わっていく。

 そんな中、自宅だけは心が休まる空間だった。父も母も、敢えて事件の話題は出さずにいてくれたからだ。ともすれば自宅に籠りそうな状況だったが、そうならなかったのは、少なからず続いていた友人たちからの応援と、何より無責任な噂をする人たちに負けたように感じるのが嫌だったからだ。

 ただ――悪いことは重なるということか。不快で不安な日常を、それでも歩いていくための足場だったはずの家が、家庭が崩れたときには、途方に暮れた。

 母の不倫が発覚したのは、それから間もなくのことだった。



 薄々感づいた、などという展開ではなかった。

 祖母の死後、叔父が管理している家について今後の相談をするために、一泊二日で出かけた泰彦と小春が自宅に帰ると、見知らぬ男が母と一緒にいた。

 珍しく激高する父と、青ざめ慌てる男。その男の背後で、母は一度は驚いた顔をしたかと思うと、その後は開き直ったように居丈高な態度で腕を組んでいた。

 父と男と母。三人が何を言い合い、何を決めたか。一日で決着が着いたわけもないが、その間のことを、小春はほとんど何も覚えていない。あまりにショックが大きくて記憶から抜け落ちた、というのもあるし、しばらく学校を休んで叔父の元へ避難していたからでもある。

 離婚の協議に入るときに、父からは事前に一度、

「それでもいい?」

 と確認があった。一も二もなく頷いたのを覚えている。

 相手の男性は、あまり問題を長引かせたくなかったらしい。協議が始まった当初から、多額の慰謝料を提示してきた。母も追従するように、資産の分与について、父にとってかなり優位な条件を提示。そして、小春の親権についても、小春本人と父の意向に従う意思を示した。

 母とも一度話をした。彼女が家を出ていく前日、自宅に戻ってきたときのことだった。

「あなたはどうしたい?」

 悪びれもせず、平然と尋ねてきた母の顔を、小春は直視できなかったのを覚えている。

「……お父さんといる」

「そ」

 絞り出すように告げた返答に対し、やはり母の相槌は素っ気なかった。

 元々夫婦仲が悪かったとは、小春は思っていない。泰彦の驚きようも演技には見えなかった。けれど、小春の目に映っていなかった歪みがあったのは、きっと確かなのだろう。

「……お母さんは、何で、お父さん以外の人と一緒になろうと思ったの?」

 聞かずにはいられなかった。

 娘の零した疑問に対し、母は意外そうに片眉を持ち上げる。しかしその意図を追及するわけでもなく、彼女は手にした紅茶のカップを揺らしながら言葉を探した。

「そうねぇ。簡潔に言えば、顔がいいのとお金持ちだからかしら」

 返ってきたのは、予想もしていなかった答えだった。小春が唖然として固まる。言葉を失い、口をぱくぱくさせる姿は金魚のようだ。そんな彼女を、母は表情を変えるでもなく見つめていた。

 小春の思考が僅かながらも再起動し、声を発することができたのは、果たしてどれくらい経ってからのことだったか。

「……そんな、ことで……?」

 非難の言葉はしかし、母を糾弾するほどの力を持ってはいなかった。母は平然としたまま、微笑すら浮かべながら、小春の言葉を撥ねつけた。

「そんなことも何も、人を好きになる理由なんてそんなものでしょう?」

 その口ぶりは、まるで物知らぬ子供を諭すような、不変の理を教えて聞かせるような、優しくも抗うことを認めない響きだった。

「じゃあ、お父さんのことよろしくね。あなたしっかりしてるから、安心して任せられるわ」

 絶句する小春を余所に、母は空になったカップを机に残し立ち上がる。口にした台詞は、皮肉でもなんでもなく、本心からそう言っているようだった。自分の不貞が原因で別れる相手に、一切悪気もなくそんな言葉を残せる性根が、己が母のことながらまるで理解できなかった。

 自宅のリビングに、小春は一人取り残される。十余年暮らした、何処より落ち着ける場所だったはずの空間が、今や見知らぬ牢獄のようだった。

「これが……」

 我知らず、呟きが漏れる。

 これが、夫婦の終わり。恋をして、結婚するほどまで仲を深めたはずの二人の、縁の終わり。こんなに呆気なく、素っ気なく、終わってしまうものなのか。ぽっと出の新たな何かに取って代わられてしまうものなのか。

 母の身勝手さに悪寒がした。今まで憧れていた、夢に見ていた『恋』というものの印象が、醜い色に塗りつぶされていく気がした。

 松葉の告白が。周囲の噂が。母の微笑が。『恋』という宝石に雪崩を打って襲い掛かり、滅茶苦茶に汚していく。元はどんな色に輝いていたのかさえ、忘れてしまいそうなほどに。その喪失感に、小春は一晩中涙を流した。

 翌朝、荷物を纏めて家を出ていく母を、小春は見送らなかった。


 そして小春の中学卒業とともに、彼女と泰彦もまた地元を離れ、亡き祖母の家へと移り住んだ。沢山の――良い思い出も、悪い思い出も数えきれないほど詰まった家も地元も捨て、遠い地で再出発することにした。

 或いはそれは、逃避だったのかもしれないが。



 中学三年の夏に受けた心の傷は、決して浅くはなかったと、自分では思っている。

 それでも私は『普通』の恋を諦めなかった。

 だって諦めるということは、彼ら彼女らに嫌と言うほど見せつけられた、あの醜いものこそが『恋』だと認めたことになってしまうから。いつか、いつかと焦がれてきた、あの綺麗なものこそが在るべきカタチだと、証明できなくなってしまうから。

 何より、他人の思い込みで、押し付けで、身勝手のせいで、何かを諦めなければならないなんて、絶対に許したくなかった。

 私が直面したモノは、きっとどれもありふれた出来事で、それを理由に私が何かを諦めてしまったら、「それが当然」と認められてしまう。他人に害された者が何かを諦めることが、当たり前のことになってしまう。私一人がくじけたら、数多の見知らぬ人たちが、私一人の弱さのせいで生き地獄に落ちてしまう。

 ――勿論、そんなのは考えすぎだし、見ず知らずの誰かの命運を勝手に背負い込むなんて烏滸がましいのは分かっている。結局は、ただ私が負けず嫌いなだけだ。

 どうあれ、あれだけの悪意に触れたからこそ、醜いものを見せられたからこそ、私は『普通の』恋をしたかった。どんな目にあっても尊いものを見失わず、道を踏み外さず、至るべき場所へ真っ直ぐに辿り着きたかった。

 けれど。けれど、けれど、けれど。どれだけ強く決意しても。祈っても。


 私は未だ、誰かに恋をするという感覚が分からないままだった――

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