Ep.12

 案内された花音の家は、小さなアパートの一室だった。古くはないが、一人暮らしが前提の住まいだ。

 通された家の中に目をやっても、家具の類があまりない。カーテンも壁紙も、彩のない無機質なものだ。さながら、引っ越してきたばかりの一人暮らしの部屋といった雰囲気。明るく活発な花音のイメージとは、どことなく乖離して見えた。

「ほい、麦茶」

「あ、ありがと」

 リビングに設置されたローテーブルの前に座布団が二つ。片方に座った小春の前に、花音がグラスを置く。自分のグラスを持って、花音も座布団に腰を下ろした。

 話さなければ、という想いに押されてここまで来たものの、どうやって話を切り出すかは考えていなかった。膝の上で拳を握りしめ、必死で思考を巡らせる小春だったが、意外なことに花音が口火を切った。

「まぁ、なんつーか……オレも悪かったよ。ちょっと理不尽なキレ方したからさ」

「えっ」

 虚を突かれ、表情を繕うこともできずに顔を上げた小春の前で、花音はバツが悪そうな顔で目を逸らす。

「そりゃ、小春の返事が煮え切らないから腹が立った、ってのはあるんだけどさ。正直、しょうがないとこもあるんだって、頭じゃ分かってるんだ。お前は、オレと一緒にいた時間が――記憶してる期間が、って言った方が正確か。とにかく、それがオレより短いから」

 独白じみた花音の言葉の意味が、小春にははっきりと分からない。眉根を寄せる小春だったが、彼女の反応は織り込み済みだったのだろう、花音は返事を待たずに続ける。

「オレは神様に作られたときに、小春との思い出を、過去を刷り込まれてる。それ自体、過去にあったことにもなってる。けど、小春はそれを知らない。小春の父さんや野乃も、ぼんやりした印象を持ってるだけで、詳しくは知らないはずだ。オレだけが持ってる思い出が、山ほどある。洗濯物の干し方教わったのも、二人でパジャマパーティーしたのも、全部オレだけが覚えてる」

 敢えて感情を殺した、淡々とした語り口だ。そこに、いつもの彼女が持つ、溌溂とした輝きはない。小春を振り回す勢いもない。常人離れした印象は全て失せ、まるで見知らぬ、等身大の少女の姿がそこにあった。

 実のところ、小春は既に、花音が『神様』とやらに『作られた』というのが事実であるとほぼ確信していた。非科学的だとかいう正論も、彼女を前に押し通す気にはなれない。何より、彼女の口ぶりが、嘘や冗談には思えなかった。

 そして、今の花音の言葉も本当のことだとしたら――考え、小春は痛ましげに顔を歪めた。

「じゃあ……花音の視点では、私は夏休みに入った途端、あんたに対して余所余所しくなったってことになるの?」

 小春の指摘に、花音の眉が揺れる。数瞬遅れて、彼女は小さく頷いた。

「うん」

「そっか……それは、不機嫌になるのも当たり前ね」

「こ、小春のせいじゃないぞ!」

 小春の呟きを耳にした花音が、慌てて顔を上げた。思いもよらなかった反応に、つい小春の口元が綻ぶ。

「うん。私が悪いとは思ってないわ。ただ、花音だって悪くないと思う。何て言うか、『神様』の雑な仕事に振り回されちゃった感じよね」

 同情ともとれる言葉に、花音の表情が固まる。

 だが、それも短い時間だ。すぐに彼女は、苦々しく笑いつつも頷いて見せる。

「まぁ、そうかもな」

 部分的な同意を見せる花音の胸の内は、はっきりとは見通せない。それでも、或いはだからこそ、小春はもう一歩踏み込んでみる。

「……そうだったらいい、ってことじゃないんだけど。『神様』は何で、私にもその記憶を刷り込まなかったのかしら。花音が誰か、って記憶は、初めて会ったときからあったのに」

「ハハ、確かにそれはオレも恨んだけどさ」

 小春が疑問を口にすると、花音は目を細めながら笑った。彼女は肩を落としながら首を左右に振り、

「矛盾しちまうからさ。小春が「恋人が欲しい」って願ったときに、既に恋人がいたことになっちまったら、そんな願いを言ったりしないだろ」

「……私以外の人たちの認識では、そのとき既に付き合ってたことになってるのよね?」

「な。そういうとこはいい加減な割に、適当に済ませて欲しいとこばっかりシビアだよな」

 いまいち整然としない理屈だ。首をひねる小春に、花音も乾いた笑いで相槌を打つ。ただその口調は、不満を抱きつつも、そんな状況に至ったことにも納得しているようであった。さながら、『神様』のできることとできないことの境界を、はっきりと理解しているかのようだ。

「まぁとにかく。オレが感じてるほど、小春はオレと一緒の時間を過ごしてきたわけじゃないからさ。オレ一人が勝手に焦れて、小春に当たっちまったのは悪かった」

 溜息とともに、首を振りながら花音がそう零す。謝罪を返そうと小春が軽く身を乗り出したが、それを制するように花音が再び小春へと目を向けて、

「ただ、オレも傷ついたのだって本当だぜ? だから、お前が「話したい」って言ってきたときには試すようなこと言っちまったわけで」

 少しだけ悪戯心を宿した眼差し。けれど、それを向けられた小春の気は晴れない。

 そんな言い方をしてみたところで、小春にも分かっていた。つまりそれは、花音にとって小春と話すことが辛く感じられたということに他ならない。

「……私だって、優柔不断なのは自覚してるわ。ホントよ」

 だからこそ、小春も陰気な声で言った。花音が薄笑みのまま、瞼を微かに動かす。

 どう話を切り出すかは決めていなくても、何を話さなければならないかは決めていた。その話題に触れるなら今だと、小春の勘が告げていた。

 それでも、口を開こうとした瞬間、無意識に俯く自分がいる。卑怯にも花音から目を逸らさずにはいられない己に歯噛みしつつも、せめて言葉は止めないように、小春は必死で声を絞り出した。

「あんたが指摘した通りよ。正直、花音とは恋人じゃなくて友達になれたらどれだけいいかって、何度も思った。花音が私を好きだって言ってくれて、そんなのは無理だって理解してても、そう思っちゃうくらいには、あんたと一緒にいるのは楽しかった」

 嗚咽が混じらないように、懸命に声を律して言葉を紡ぐ。対する花音は、声もなく真剣な表情になり、目を瞠っていた。

 花音からの視線が強さを増すほど、小春の胸が締めつけられる。ここで立ち止まりたい衝動に駆られてしまう。

 それでも、これ以上先延ばしにはできない。小春が今までずっとぬるま湯の日常に浸かっている間、花音がどれほどの苦しみを味わってきたか、知ってしまった以上はもう先送りにできない。

「でもね……」

 何度も何度も、ここまで何度も逡巡を重ね、口を閉ざしてきた。言わずに済むのなら、なんて甘ったれたことを考えていた自分を、今は恥じるばかりだ。

 そんな後悔の重さを噛みしめ、小春は遂に、その言葉を――想いを口にした。

「私は、『普通の』恋がしたい――しなきゃ、できなきゃ、駄目なの」

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