Ep.11
グラスに注がれたコーヒーに浮かんだ氷が、パキッと音を立ててひび割れた。無為に溶けていく氷と、表面に水滴が張りつき始めたグラスを、小春は背筋を丸めてぼんやりと眺めていた。
テーブルを挟んだ向かい側では、泰彦が時折グラスを傾けている。無言を貫く彼に、小春は小声で、
「その、聞かないの? どうしたのか、とか……」
「聞かないよ。言いづらそうだから」
対する泰彦の答えは、あまりにあっけらかんとしていた。小春が思わず目を丸くする。グラスを回して氷をカラカラと鳴らしつつ、微笑を浮かべた泰彦は真っ直ぐ小春を見つめ、世間話さながらの調子で語りかけた。
「人と人の仲ってものは、上手くいっているようでも見えないところで歪みが溜まっていたりするし、それが弾けた拍子に呆気なく切れてしまったりもする」
あっさりとした口ぶりで、嫌に不穏なことを告げる父を見る小春の瞳が、不安げに揺れた。泰彦は気に留める様子もなく、またコーヒーを一口飲み下してから続ける。
「強固なようでいて、存外脆いものだよ。ただ、人同士の繋がりに限らず、失ったからどうにもならないものっていうのは、人生において多くない。恋人と別れても、妻と別れても、それで何もかも立ち行かなくなるわけじゃない」
「……お母さんのこと?」
続く言葉に、小春が問いを投げた。泰彦は微笑んだまま、肯定しなかった。ただし否定もしない。答えるまでもない、とでも言わんばかりだ。
両手を組んだ小春の指に力が入る。そんな彼女の反応にも構わず、泰彦は懐かしげに目を細めた。
「母さんの不倫を知ったときには、まぁ怒ったよ。娘を持つ親として、子供に顔向けできない不貞を働いたことは許しがたかった。けど、別れてみてから、僕自身は思ったより平気でいることに気づいた。「あぁ、こんなものなのか」って感じだったね」
言葉に反して穏やかな口調。同時に、やはり言葉に反して、その笑みが少し寂しそうに映る。口を挟もうにも挟めずに、小春は眉根を寄せるしかなかった。
父と母が離婚してから、泰彦の口から母の話題が出るのはこれが初めてだ。両親が――表面上は――仲が良かったのもそう昔のことではないはずなのだが、今となっては小春も、そんな二人の姿が思い出せない。記憶にあるのは、不倫を責められても傲慢な態度を崩さない母と、感情を殺して離婚に向けた手続きを進める父の姿。
そして二人が別れる前に、一度だけはっきりと小春に謝った父の言葉。
――ごめんね、小春
――『家族』を守れなくて、ごめんね
――当たり前の日常を、守ってやれなくてごめんね
父に非が無かった、とは言い切れない。当事者の片方である以上、破局のきっかけになる要因が彼に全くなかったわけではないはずだ。けれど、母の責任にも非にも触れず、自分も辛いはずなのに、ただ自分の非を苦しげに吐露する父の言葉とその時の顔は、小春の脳裏に焼き付いている。
そんな古い記憶を擽られた小春の前で、気を取り直すように一度肩を大きく上下させた泰彦は、直前までより声を明るくして再び語り出す。
「どうあれ、後悔せずに済むならいいんだ。誰との仲がこじれても、どうなっても、どうあれそれは君の問題で、親であっても僕が口を出すことじゃない。どういう結果に終わっても、君の決断で迎えた結末は、何らかの形で今後の君の糧になる。けど――」
普通なら、突き放すような言葉にも思えただろう。それでも、小春はむしろ背中を押されたように感じていた。或いは、へばっていたところを支えられたようにも思えた。それは、途中で途切れた言葉の先にあるものを予感していたからなのかもしれない。
促されるように小春の顔が上がり、父と真正面から顔を合わせることとなった。
いつも見ている父の顔が、そのときは少しだけ、見知ったものとは違って見えた。
「できることとか、すべきと思うことが残っているなら、それはやっておくといいよ。全部やり切った後なら納得できても、やり残したままでは後悔する。「あのとき、ああしておけば良かった」なんて後悔は、あまり役に立たないからね」
微かに曲がった口の端が、どことなく皮肉を帯びて見えた。
そんな印象を抱くと同時に、小春は自分の心がさっきまでより軽くなっているような気がした。ほんの一時のことかもしれない。だが少なくとも、父のそんな表情の変化に気づける程度には、余裕があるということなのだろう。
「お父さんも、後悔したことがあるの?」
意味のある問いかけではない。確認というよりは、悪戯に近かった。虚を突かれた泰彦が真顔で目を瞬かせ、かと思えば苦笑で首を竦める。
「さぁ、どうだったかな」
自嘲の色を帯びた声は同時に、娘の成長を楽しんでいるようでもあった。
小春がグラスを掴み、音がしそうな勢いでコーヒーを嚥下する。あっという間に飲み干しグラスをテーブルに置いた彼女は、一度目を閉じ、両手で自分の頬を叩く。再び目を開いた小春には、さっきまでの打ちひしがれた面影は残っていなかった。
「お父さん」
「うん」
「ちょっと出かけてくる」
立ち上がり、力強く宣言した小春に、泰彦は小さく頷き、
「車には気をつけて。日が暮れる前には帰っておいで」
「……子供じゃないんだから、もう」
思わぬ反応に、今度は小春が一瞬言葉を詰まらせた。拗ね気味に頬を膨らませ、それでも微笑んだ彼女は、一度自分の部屋に戻った。上着を羽織ってスマホを掴み、飛び出すように家を出る。
と言っても、行く当てが決まっているわけではない。玄関から外へ出た彼女は、軒先の日陰に隠れるようにしながら、スマホの画面に指を走らせる。電話をかけ、呼び出し音を奏でるスピーカーを耳に当てた。
繰り返されるワンパターンなメロディ。それが不意に途切れた。代わって訪れる無言、ただ、静寂の向こうに微かな息遣いがあった。
「花音」
緊張しながら呼びかける。
応答はない。だが聞こえてはいるはず、という前提で、小春は再び呼びかける。
「花音……その、会って話がしたいの。会えない?」
やはりすぐには返事がない。それでも、電話口の向こうで花音が息を零したのが聞こえた。何かを吟味するような無言の間に、小春も口を閉ざしてじっと堪える。
蝉の声が聞こえる中、ちょうど一分後に花音が応えた。
『なら、うちに来いよ』
低い声、そして固い口調だ。
『オレ以外には誰もいない。自分の知らない場所にある、オレの家で、オレと二人っきり。それでもいいって言うなら、会おうぜ。嫌ならこれっきりだ』
試すようにも、拒絶のようにも聞こえる口ぶりだった。実際、花音はどの程度、小春が首を縦に振ると思っていただろうか。
それが花音にとって予想通りだったか、それとも意外だったかは分からない。小春は空の拳をぐっと握り、はっきりと告げた。
「行くわ。場所、教えて」
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