Ep.10
五日が過ぎ、十日が過ぎ、半月が過ぎた。
その後も花音は二、三日に一度、小春の家に遊びに来たり、一緒に出掛けたりした。他愛のない談笑をしたり、ゲームをしたり、
いつかは別れるつもりでいた。いつか、ボロを出すはずだ。いつか、別れるきっかけができるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、実際にそんな兆候は見出せないまま、花音との日々を漫然と楽しんでいた。確かに楽しんでいたのだ。
いつか、いつか。
その「いつか」を決めるのは自分だと、信じて疑わなかった。イニシアチブは自分が握っているものだと、当然のように思い続けていた。
その日が来るまでは――
■
「なあ小春。ちょっと聞いてもいいか?」
と、ゲームのコントローラーを握ったまま花音が尋ねたのは、とある日の昼下がりだった。
この日も小春の家に遊びに来ていた花音は、ベッドを背もたれに小春と並んで床に座り、レースゲームに興じていたところだった。
「ん~? 何?」
珍しく連勝でレースを終えた小春は、問いかけにも何も疑うことなく、少し上機嫌に相槌を打つ。花音と同じく正面を向いたまま、続く言葉を待った。
花音は、何気ない日常会話のトーンで、
「小春は、オレのこと好きか?」
――時が止まったようだった。
指が凍りつき、足の感覚が消え、舌が痺れた。瞬きの仕方を忘れ、呼吸が止まった。思考でさえ意味のある動きを止め、たった今耳にした言葉を繰り返し、真偽を疑うばかりの短絡的なループに陥った。
錆びついた動きで、小春は眼球だけで花音の姿を追った。それとは対照的に、花音はゆっくりと、だが確かな所作で、小春へと顔を向けた。
人形のように整った美貌は、何の感情も伺わせない。温もりはおろか、冷たささえも感じさせない自然体。ただ日常の一幕を切り取ったような、何の違和感も覗かせない表情で、彼女は小春の返事を待っていた。
「そん、なの……」
決まってるじゃない、と、堂々を言えたらどんなに良かったか。
別れてやる、と決めていた。別れなきゃいけない、と焦っていた。最初は、ただそのために恋人としての日々を、彼女としての花音を受け入れたはずだ。なのに、一方で、今の自分が彼女との時間を楽しんでしまっていることを、小春自身も理解していた。
嫌い、と答えなければいけないはずだ。せめて、好きじゃない、とは言わなければいけないはずだ。別れるのだから。花音が恋人であっては困るのだから。
「好き」だなんて答えてはならない。思ってはならない。そんなことがあってはならない。好きじゃない。好きじゃない。好きじゃない。
「わたし、は――」
――なのに、その言葉は声にならなくて。
乾いた喉の内側に、何かがこびりついて剥がれない感覚。気づけばいつの間にか、花音と向き合っていた。咄嗟に彼女に手を伸ばしかけて、止める。どうしてそうしようとしたのかすら分からなかった。
半開きの口を無意味に震わせる小春を、花音は無言で見つめていた。どれくらい経ってからだろうか、不意に、花音が静かに、長々と息を吐く。
そして。
「なあ。ふざけんなよ?」
言葉とは裏腹に穏やかな表情と、抑えた声。だが微かに震える声音が、そこに隠された激情を感じさせる。こんな花音を見るのは初めてだ。怯えが小春の顔に出るが、花音は一顧だにする様子もない。
声のない小春へと、花音は続ける。
「オレばっかりお前のことが好きで、何度もそう伝えて、その返事がそれか? 嫌いなら嫌いで、はっきりそう言えよ。オレと別れてやるって息巻いてたのはどうしたんだよ?」
淡々と、突きつけるように言葉を並べる。一言ごとに、小春の息が詰まる。問いかけが重なり、具体的な選択が提示されて尚、何も言うことができない。宝石のような青の眼光が、針のように小春を縫い留めていた。
口を利くことができない小春。彼女に対する最後通牒のように、花音は決して聞き違えることのないよう、確かな口調で言う。
「小春さ。このままオレを拒絶もせず、受け入れもせず、なぁなぁで過ごしてれば、いつか『恋人』じゃなくて『友達』になれるとか思ってたんじゃないか」
問いかけるようでいて、口ぶりは断定的だった。小春はやはり答えられない。ただ、胸の内を見透かされた動揺は、堪え切れずに顔に出た。
どれくらいの時間、花音の視線に晒されていただろう。最後まで小春は何も言うことができなかった。
細い息を一つ。唐突に花音が立ち上がる。
「……もういい」
無気力に吐き捨てると、彼女は小春に背を向けた。部屋のドアに手をかける。咄嗟に小春も腰を浮かし、
「ま、待って!」
「待ったって、何も答えられないんだろ?」
だが、振り返った花音の眼差しに再び射抜かれ、踏み出そうとした足が止まった。図星だ。続く言葉が、今の小春にはない。
自分の指摘が正しいことを察し、むしろ花音は落胆の息を漏らす。目を伏せ、背中を向ける前に横顔を見せながら、低い声で唸った。
「……せめて、ちゃんと答えを聞きたかったよ。小春の口から、ちゃんと。でも無理なんだな。分かったよ。だから、もういい」
それは、聞いたことがないほど弱々しい声だった。自分がそんな声を出させている事実が、たまらなく情けなかった。それでも、小春は踏み出せない。何も言い出せない。花音の声と同じくらい弱り切った表情で、歯を食いしばることしかできないほど無力だった。
花音はもう何も言わなかった。ドアを開け、外に出て閉める。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、小春の脚が力を失う。ぺたんと床に座り込んだ彼女の頬を、涙が一筋伝い落ちていく。
自分以上に泣きたいのは花音のはずなのに。自分が居心地のいい状況に甘えていたばかりに、彼女を傷つけたことは間違いないのに。それでも、小春は涙を止められなかった。
次々流れ出る涙が、ぽつぽつと音を立てながら床を濡らす。その音とともに、開けっ放しの扉の外から足音が聞こえてきた。花音のものではない。反射的に小春が顔を上げると、ノック音とともに扉が微かに揺れる。
「小春。花音ちゃんが帰ったようだけど、どうかした?」
泰彦だった。彼はしばらく間を空けて、もう一度開かれた扉をノックする。それでも返事がないのを認めて、今度はそっと部屋の中を覗き込んだ。無言のまま涙を流す娘と目が合った。
泣き濡れた小春を見下ろした泰彦は、幾度か目を瞬いた後、穏やかに笑みかける。
「……リビングにおいで。コーヒーでも飲む?」
麻痺していた小春の思考が、意外な提案に刺激されて、少しだけ動きを取り戻す。
労わるように差し出された父の手に、小春は自らの手を重ねて立ち上がった。
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