Ep.6

 花音の態度に違和感があったのは、あくまで一瞬のことだった。

 少し歩いて、公園の中心にある池の傍までやって来た頃には、彼女は何もなかったかのように明るさを取り戻していた。今は蓮の花にスマホのカメラを向けている。

「大きいわね。私、蓮の花の実物見るのって初めてかも」

 小春も負けじとカメラを構え、倍率や立ち位置を変えつつ繰り返しシャッターを切る。スマホのそれとは違う、小気味の良い駆動音が幾度も鳴った。そんな彼女をじっと見つつ、

「なんかさー、こうして小春が写真撮ってるの見ると、オレもゴツいカメラ買おうかなって気になってくるんだよなぁ」

 どことなく羨望の混じる声だ。対して小春が返した声音は、喜色を滲ませつつも慎重な響きだった。

「楽しいとは思うわよ。けど正直、高いのよね。私のは貰い物だけど、自分で買うのは躊躇するな」

「んー、そっかぁ」

 難色を示す小春の口ぶりに、花音の相槌も心なしか重くなる。それでも名残惜しそうに、彼女は自分のスマホと小春のカメラを交互に見た。

 ある意味、如実な態度だ。とはいえ、無自覚に見えるあたり質が悪いとも言えるし、そんな仕草が可愛いだけで許せてしまう気もする。小春はほんの小さな溜息とともに言った。

「ちょっと触ってみる?」

「んえっ、いいのか!?」

「何よその声。いいわよ、壊したりしないでしょ」

 水を向けてみると、途端に花音が破顔した。陽光に輝く髪にも劣らぬ勢いで、両の目が燦々と輝きを放つ。微風に揺れるワンピースの裾が、まるで尻尾のように見えてくる有様だ。

 自分の首からストラップを外し、花音の首に掛ける。そして彼女の両手にカメラを握らせた。受け取った彼女は、初めて手にしたカメラの重量感に感嘆の息を漏らす。

「おぉぉ……何かこう、持ってるだけでレベル上がったみたいな錯覚あるなぁ」

「気のせいだから安心してね」

「サンキューな。小春の身体だと思って大事に触るぜ」

「やっぱ返しなさい、今すぐ」

「冗談冗談」

 軽口を叩きつつ、ひらりと小春の手を躱した花音は、カメラのところどころを指で示しながら、

「で、ここズーム? ここシャッター?」

「合ってる。それで、シャッターを半分押すと自動でピントが合うから、その後押し切れば撮れるわ」

 確認を求める花音に頷き返し、小春が伝える。ふむむ、と短く唸りながら、花音はカメラを向ける先を求めて視線をフラフラと彷徨わせ――小春を、次いで池から伸びる蓮に目を留めた。

 何かを閃いたように、一瞬花音の目が丸く開かれ、次いで真剣味を帯びる

「小春、小春。もう何歩か左寄って。あ、池落ちないように気をつけてな」

 自身も足元に注意して移動しながら、そう要求してくる花音に、小春が微かな驚きを見せた。小春を撮ろうとするだろうな、とは思っていたが、さっきまでのような不意打ちではなく、構図に拘ろうとするのは予想外だった。それと同時に、殊の外撮影に対して興味深そうな彼女の様子に、少し嬉しくなった。

 言われた通り、数歩横に動いて花音の方を見る。彼女は小春と花の位置を見比べながら、前後左右に立ち位置を変えていた。

「よーし、こんな感じでいいかな……うしっ、撮るぞー小春。今度はちゃんと笑ってくれよな?」

 念押しされてしまった。とはいえ、きちんと撮ろうとしてくれているところで仏頂面をする気もない。無言で頷くと、花音も明るい顔で頷き返した。

 微かなカメラの駆動音。ピントが合った。レンズ越しに花音と目が合う、そんな感覚。自然と小春の口角が上がる。

「いくぞー。はい、チ――」

 ――が。

「――ズ」

「あっ」

 シャッターが切られる瞬間、小春が驚きの声を上げた。目を丸くして固まった瞬間がカメラに切り取られ、液晶画面に映し出される。満開の花のようだった花音の表情が、一直線に悲しみの色に染まった。

「ちょ、小春……いくら何でもそりゃねーだろお前……」

「ご、ごめん、つい」

 流石に小春も申し訳なさそうに頭を下げる。ただ、彼女は続いて花音の足元を指さしながら、

「あのね花音、ほらそこ、足元見て。猫」

「……お? ホントだ」

 指摘されて、花音は顔だけ動かして下を見る。小春の言った通り、一匹の黒猫が、彼女の足元で円を描くように歩いていた。

 頭上の気配に気づいたのか、猫はふと足を止めて花音を見上げる。「にぉぉぅ」と、ちょっと低い声で唸ったかと思うと、今度は立ち止まったまま尻尾を花音の脚に擦りつけ始めた。

「人懐っこい子ね、自分から寄って来るなんて珍しい」

「愛想のない顔してるけどなぁ」

 ゆっくりと小春が近づいても、逃げ出したりする様子はない。感心したように小春が呟くと、花音もまた微笑しながら相槌を打った。人間たちの声にも、やはり猫は動じることなく、マイペースに尻尾を揺らしている。

 小春は可愛いものは人並みに好きだし、猫も好きだ。花音も苦手にしているようには見えない。足を動かさないようにしながら、猫の好きなように脚を撫でさせていた。

「……撮ったら?」

「お、そうだな。よーし、いっちょ可愛く写してやるかぁ」

 促されてようやく思い出したらしい。レンズを眼下に向けた花音の姿に、小春の口の端から呆れた吐息が漏れる。

 シャッターが切れる音を聞きながら、彼女は膝を曲げて視線を下げ、猫の顔を覗き込んだ。少しの間目が合ったような気がしたが、すぐに逸らされてしまった。仕方ないとはいえ、やはり少しばかり残念に思えてしまう。

 くつろいだ様子で花音に身体をすり寄せる姿を見て、小春の脳裏でアイデアが唐突に閃いた。

「花音。その子、抱っこしたりできないかな」

「んー? まぁできるんじゃねぇかな……」

 猫を見つめていた顔を上げて、小春が水を向ける。対する花音は、言葉とは裏腹に難色を示す声だ。カメラを握る手が、もどかしげに動いている。

 立ち上がった小春が、花音へと手を差し出しながら言う。

「ちょっと抱き上げてみない? 撮ってあげるから」

 その瞬間、気のせいか、花音の耳がピクリと震えた気がした。まるで猫だ。

「撮ってくれんの? 小春が、オレを?」

「そんなに意外がることじゃないでしょ。さっきも言ったけど、あんた見た目はいいんだから、ちゃんとしてれば絵になると思うし」

 苦笑しながら応える小春だが、その声が耳に届いているのかどうか、花音は小躍りでもしそうな勢いで喜んでいた。それでも足はぴたりと固定したままなのは、猫に逃げられないためだろうか。

 花音は小春が伸ばした手にカメラを渡し、次いで慎重に首からストラップを外す。それから再度眼下に目をやって、

「そぅれ、暴れるなよー。一緒に写真撮ってもらおうなー」

 言葉通りの猫撫で声で呼びかけつつ、花音がゆっくり手を伸ばす。猫はやはり抵抗する素振りを見せず、彼女の手に持ち上げられた。

 両腕で包むように抱きかかえ、花音は猫とともに小春に向き直った。期待に満ちた光り輝くブルーの瞳と、無愛想な金色の目が、カメラを構えた小春を同時に捉える。

「さあ来い!」

「気合入り過ぎでしょ……」

 既に満面の笑みの花音に、やはり苦笑が零れてしまう。それでも小春はそれ以上何も言わず、レンズを向けた先に集中した。

 シャッターボタンに指を置く。ピントが合い、シャッターを切る瞬間が迫る。

 画面に映る、キラキラ輝く少女と黒猫のコントラストがあまりに鮮やかさで息を呑む。今さらながら、被写体の贅沢さに少しだけ緊張した。

「……撮るわよ」

 その緊張を振り払うように、敢えてもう一度呼びかける。変わらぬ笑顔で返事が飛んできた。

「おう!」

「はい、チーズ」

 合図とともに、シャッターを切る。いつも通りの小気味いい音と手応えが、いつも以上にはっきりと感じ取れた。

 液晶に映し出された、笑顔の花音と黒猫の写真。会心の出来だった。達成感が小春の口元を緩ませる。

「どうだ? 綺麗に撮れたか?」

 花音も興味津々に近づいてきた。抱えられた猫は我関せずと言いたげな仏頂面だが、不思議と花音の手を離れようとはしない。彼女の上機嫌に水を差すまいとでもしているかのようだ。

 直前の写真を表示したまま、小春は花音に画面を見せながら、

「撮れたわよ。可愛い猫が二匹」

「へ? 他にもいたのか? どこ?」

 得意げな一言に、花音が目を丸くした。映し出された写真を隅々まで食い入るように見つめた後、弾かれたように背後を見る。だがそのどちらにも、彼女が抱えている黒猫以外に猫の姿はない。

 訝りながらもう一度写真に目をやる花音だったが、彼女はそこでようやく、小春が押し黙ったままそっぽを向いていることに気がついた。心なしか頬が赤い。

 写真を見直す。小春を見直す。たっぷりと時間をかけた末、花音は遅れに遅れて理解した。

「……ひょっとして、猫二匹ってこいつとオレか?」

「ちがう」

 固い口調で否定された。小春はまだ目を合わせてくれなかった。

「可愛い猫が二匹って」

「ちがう。言ってない」

 またも即座に否定の言葉が返ってくる。小春の頬は赤いままだ。

 花音の口元が、徐々にニマリと歪んだ。

「そっかそっかぁ。やっぱり可愛いかぁ。流石オレ、流石小春の彼女」

「だから言ってないってッ! ていうか、あれよ。可愛いのは猫だけだからっ」

「そんなムキになるニャ・・よぅ。ほら、オレだって可愛い猫ちゃんだぜ。にゃん」

「キャラ付け雑!? そしてすり寄るなっ、甘えるなっ!」

 跳ねるような足取りで小春に近づき、喉を鳴らしながら頬ずりをしようとする花音の顔を、小春はぐいぐいと押し返す。今はその顔の赤さが、羞恥のせいか怒りのせいかも分からない。

 ぎゃあぎゃあ頭上で騒ぐ人間を余所に、花音の腕の中で黒猫があくびをした。それはまるで、その声に悪意も敵意もないことを理解しているような寛ぎっぷりだった。

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