Ep.2
部屋から花音を閉め出した上で、可及的速やかに着替えを済ませた後、小春は部屋から転がるように出た。今さらながら、花音を一人にしておくことに不安を覚えたのだ。
部屋を出て左右を見渡す。いない。となれば、言っていた通りリビングだろうか。廊下の先に目をやるのと同時、微かだが話し声が聞こえた。一人はさっきまで会話していた相手、花音。そしてもう一人は、父の声だった。
そうと認識するより先に、リビングの方へ足が向いていた。すぐに辿り着き、覗き込むと、小春に気づいた二人が揃って彼女の方を見た。
「おはよう小春。何だか騒がしかったけど、どうしたの?」
父がそう声をかけてくる。
小春の父である呉
小春からしても、父からあまり厳しいことを言われた記憶はない。その一方で、物事をよく考えて判断することと、視野を広く持って色んな価値観に触れることは、日頃から繰り返し言われてきた。物腰は柔らかくとも押しが弱いわけではない、というのが娘なりの評価だ。
「それが、やれ「服脱ぐときは恥じらいを持て」だの「着替えるから出てけ」だの、恥ずかしがり屋の小春にどやされちゃって。女同士でそんなに騒がなくてもなぁ、とも思ったんですけど」
小春が答えるより早く、花音がわざとらしく首を竦めながら、溜息混じりに零す。
言い返そうと思ったものの、同時にフラッシュバックした花音の着替えの光景に、うっかり息を詰まらせる。無言の小春に代わり、というよりは彼女の異変に気づいた様子はなく、泰彦の方が花音に言葉を返した。
「ああ、それはね。小春は真面目だから。同性だとしても、恋人の裸は恥ずかしがると思うよ」
「…………へ」
苦笑を交えた父の台詞に、小春の表情から色が抜け落ちた。
泰彦の死角にいたため、娘の変化に彼は気づかない。代わりに小春を見ていた花音が、ほんの一瞬、可笑しさのあまり爆笑しかけて口元を引き攣らせた。
「……花音、ちょっと」
小春は覇気のない声で呼びかけ、手招きする。怪訝そうな泰彦に対し、花音は軽く手をかざして、何でもないとアピール。泰彦もそれに頷き返し、
「朝ご飯の準備はしておくから、二人とも、あまり遅くならずにおいでよ」
一言告げて、キッチンの方に歩いて行った。
やたらと馴染んだ様子の二人のやり取りに思うところが無くはなかったが、敢えて目を瞑ることにした小春は、父の姿が遠のいたのを認めた上で尚、手で口元を隠しながら花音に問いかけた。
「ちょっと、何でお父さんまであんたのこと知ってんの……!?」
小春の剣幕などどこ吹く風で、花音はケロッとした顔で答えてのける。
「この国は同性カップルに対する風当たり強いからなぁ。身近なところにちゃんと応援してくれる人の一人も欲しくなるだろ? 小春の父さんが理解のある人で良かったな」
「私の同意も無しに、あんたが私の恋人だって勝手に決めないで! そもそも私だって、恋人っていったら普通に彼氏が欲しかったんだし! っていうか、納期遅れてもいいから男に交代してよっ!」
「おいおい。オレは出自がちょっと特殊なだけの、何の変哲もない一般超絶美少女だぜ? お前やお前の父さんに、あれこれ弄った記憶を与えたのも、オレじゃなくてオレを作った神様だし。その神様にクレーム入れるためのアンテナなんか持ってねぇよ」
肩を掴まれ揺さぶられても、花音は涼しい顔のままだ。台詞は色々と突拍子もないのだが、それが事実でない可能性など一顧だにする必要はないと言わんばかりの態度である。
怒り心頭の小春だったが、花音の言葉を反芻するうち、思考の一部が冷静さを取り戻した。次いで、その温度が氷点下まで急下降する。
急に大人しくなった彼女を心配そうに見やる花音だったが、小春は唐突に彼女の目を真っ直ぐ覗き込んだ。目の奥に、何やら深淵が渦巻いている。
「え……ねえ、ホントに私、あんたと女同士で付き合ってるってお父さんに思われてるの? 冗談とかじゃなく?」
掴まれた肩に指が食い込む。その指の
「他にも何人か、小春の友達も知ってるよ」
「なお悪い!?」
「心強いな」
よもやの返答に愕然とし、小春の膝が折れる。
床にへたり込みそうになった彼女の身体が、しかし落下を始めた直後に止まる。咄嗟に腰に腕を回した花音に抱き寄せられ、支えられていることに気づくまでに、小春はしばしの時間を要した。
「何度も言ったろ。オレは、小春の彼女だって」
耳元で囁かれた。どこか挑戦的にも聞こえる声だ。だがそれ以上に、吐息が直に耳に触れる感触に、小春の背筋が粟立つ。
「少なくとも今の時点で、それは変えられない。まぁオレがフラれちまうことは、無いとは言い切れないけどさ」
「! そ、そうよね。むしろ今――」
語りかけられる言葉が耳を右から左へ抜けていく中、その一言を聞いた途端、小春の目に光が戻った。両脚を踏ん張り、どうにか体勢を立て直した彼女だが、花音の言葉はまだ続く。
「その場合、なんでオレをフッたのか、応援してくれてた周りの人たちにちゃんと説明できるか? 一度は同性同士でも構わず付き合い始めたのに、だぜ?」
「うっ」
「女同士だから、ってだけで今さら別れられると思うなよ。自然な理由がなきゃ、周りの目は一気に冷めるぞ。そんなこと考えるより、腹括ってオレと仲睦まじくいちゃいちゃしようぜ」
小春は石を呑み込んだ表情で固まる。そんな彼女の頬に手を当て、わざとらしく唇を突き出して囁く花音を、小春は手で押しのけた。
「嫌がらせな上に脅迫じゃない!」
睨みつける眼光とともに、嫌悪を込めて叩きつける。言葉では悪態をつきながらも、キスをせがむ花音の姿に少し高揚してしまったのは、彼女の類稀な容姿のためか、或いは彼女が恋人という刷り込みのせいか。
小春の腰に回していた腕も解き、無抵抗の意を示すように両手を上げた花音は、首を左右に振り、
「嫌がらせとは人聞きの悪い。どうもちゃんと伝わってないようだからこの際言っておくけどな」
と、そこで言葉を一度切った。不機嫌顔で彼女を睨んでいた小春だが、花音の眼差しが帯びた真剣味に気づき、黙って続きを待つ。
小春が何かを察したことを、花音もまた察し、彼女は直前までより少し抑えた声で告げた。
「オレは、お前のことが好きだよ、小春。何があっても一緒にいたい、絶対に放したくないって思うほど」
「…………」
「オレが小春の彼女になれたのは、お前の願いを神様が叶えたからだ。けどオレがお前の彼女でいたいって思うのは、お前のことが好きだからだよ。そこんとこは間違えないでくれ」
穏やかに語りかける花音の言葉に、小春はじっと耳を傾けていた。
不思議なことに、さっきまでのような反射的な高揚や胸の高鳴りはない。却って地に足が着いたように平静を保てていた。
羞恥に思考を曇らせることも、それを誤魔化すような反駁もない。花音と同じように、冷静で真剣な目をした小春が、ゆっくりと口を開く。
「私は、あんたのことをよく知らない」
花音の眉が揺れる。
拒絶で応えると思っていた小春が、予想に違う反応を見せたことに、花音はほんの少しだけそれまでと異なる感情を覗かせた。それが未知への興味か、不安の類かは分からなかったが。
「だから、しばらくはあんたが彼女だっていう状況、受け入れてあげる。一緒に過ごしてみないと、あんたのどこがダメで、どうして一緒にいられないかも分からないもの」
「……別れるために、付き合ってくれるって?」
躊躇と苦笑の末、花音が不服げにぼやいた。
「覚悟しなさいよ。この夏休みの間に、あんたと私じゃ相性悪いってこと、確かめてみせるから」
ようやく少しだけ楽しそうに、小春の口の端が持ち上がる。
彼女が笑みを見せたことに、花音もまた表情を綻ばせた。まるで直前の台詞を無視したような反応だ。
話は終わりとばかりに、小春は踵を返した。リビングの方へ歩き出す彼女を、花音が追う。背を向けた小春の表情は、当然花音には分からない。
口の中で消えるほど微かな声で呟いた言葉も、聞き取ることはできなかった。
「そうじゃなきゃ――」
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