6-3.どうか一人で泣かないで
彰宏がいない曜日を選んで、杉田は梨乃の家の呼び鈴を鳴らした。
「帰って、家には入れない」
「お願い、話したいんだ。頼むよ」
そんな風に杉田に懸命に頼まれれば梨乃は断れない。そもそも断りたくないのが本音なのだから、こうして家に招き入れることが彼女の本意だった。
杉田が息の詰まるこの空間にいることが不思議でたまらなかった。黒いインテリアに囲まれた陰鬱な部屋で、杉田だけが異質だ。
「梨乃さん……、俺、」
杉田の手は梨乃に伸ばされたが、それは彼女に触れることなく元の位置に戻った。この空間で触れてしまえば、それはもう終わりを意味していると杉田の理性が警鐘を鳴らしたのだ。
「杉田さんの意気地なし……。覚悟して家に入ってきたんじゃないの?」
梨乃は触れ合いを望んでいる。遠回しにでも抱いてと縋る彼女に触れられないこの手に何の価値があるのだろうと、杉田は拳を握り締めた。
「梨乃さんにはアキくんがいるでしょう?これはいけないことだよ」
「じゃあ、どうして、どうして放っておいてくれないの……」
梨乃は今にも泣き出しそうだった。し、それは尤もな主張だと思えた。
杉田は梨乃の問いの答えにもう十二分に気づいているのだ。一度距離を置こうと、もう会わないでいようと決めた日。その約束を破って、己の心のままに彼女に会いに来た今日。その時に答えは出ていた。
「俺は梨乃さんを手放したくない。ずっとそばにいたいなんて言わない。ただ、何かしらの形で関わっていたい。キミの最期を知りたい。俺の最期を知ってほしい。思い出にはなりたくない」
杉田は梨乃の手を握った。ほら、それだけで梨乃はこんなにも泣きたくなるのだ。
「だけど俺たちはこれ以上先へ進んじゃダメだよ」
そこまでを一思いに告げた杉田は「ごめん、これは俺の我儘なんだ、ごめん……」と、握った手に力を込めた。
「ひどい……あの日わたしは忘れようと思ったのに、もう無理なのに……」
梨乃の瞳からはついに涙がこぼれ落ちた。杉田も梨乃を好きだと言っているのに、関係を進める気はないようだ。なのに放っておけないだなんて、関わっていたいだなんて、随分と残酷なことを言う。
「わたしは杉田さんに抱かれたい……」
「それは……もう戻れなくなりそうで怖い。きっと歯止めが効かなくなる」
わたしはもうとっくに戻れないのに?と、その言葉を梨乃は飲み込んだ。
「それじゃあ約束をしよう。こういうことはこれっきり。二度目はないの。で、もう会わない。連絡も取らない」
ね?それなら戻れるでしょ?と、梨乃は可愛く首を傾げた。杉田は目を瞑り、細く長い息を吐いて、梨乃の手をもう一度強く握った。
「一回限りの過ち。わたしたちはそれでおしまい」
梨乃は、ただ一度だけでも一瞬だけでも、杉田が自分のものになったという事実が欲しかった。
その手に触れられて愛を囁かれて、自分の存在がまるで特別になったかのような錯覚をしたい。その後が苦しいことはわかる。だけど何もなかったまま終わりにしたくない。
杉田に深いところまで全部知ってほしい、ふとしたときに思い出してもらえるように、思い出は多い方がいい、と梨乃は思い直した。
「それは……」
杉田は梨乃の提案に言葉を返せなかった。
「不安はなくなったよ?依存なんてしない、させない。……だめ?」
「終わりに向かって進めていくの?」
「そうだよ。わたしたちにはそれしかない」
梨乃の真摯な瞳が杉田を射抜く。逸らせない。初めから、出会ったあの時から、こうなることは決まっていたのだろう。
「俺は……それがつらい。他人には戻りたくない。だからここから先に進みたくない」
「そんなの、ずるいよ。わたしばっかりが苦しい……」
梨乃の瞳に宿った決意は杉田の言葉で一瞬にして揺らぐ。
一度でも杉田の肌を感じられたら彼を手放そうと覚悟したのに、覚悟のかの字も抱いていない杉田は、自分勝手に梨乃を現状維持に縛り付けることを望んだ。進むことも戻ることも許されない、それは真綿で首を絞められるような苦しさなのだ。
「梨乃さんは随分諦めがいいんだな」
「え?」
それなのに杉田は梨乃を非難する。それどころか梨乃の強がりをなぞるように、隠した気持ちを暴いていくのだ。
「俺は無理だよ。何もなかった頃には戻れない。梨乃さんと出会う前の俺に戻りたくない」
だなんて、梨乃も全く同じ気持ちなのだ。出会った時には既に手遅れだったのだろう。
梨乃さん、と呼びかけた杉田は、握り締めていた梨乃の手を口元に持っていき、手のひらに優しく口づけを落とした。
「どうか、俺を思い出にしないで」
「どうか、俺を一生忘れないで」
手のひらに唇を当てながら、梨乃の目を見つめながら、杉田は梨乃に一生解けない呪いをかけたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます