6-2.どうか願いを聞き入れて

 うずくまった梨乃を見つけたのは、シャワーを浴びようと廊下に出てきた彰宏だった。


 彼は一瞬驚き、「は?」と声を出したが、次の瞬間には大きな溜息を吐いて「お前がどうしてここにいるんだよ」と冷たく言い放った。


「せんせ?あたしも一瞬にシャワー浴びたい」


 不倫相手は可愛い声で彰宏の腕に絡みつき、何も纏っていない肌を梨乃の眼前に晒した。


「きゃっ!え、だれ?!」

「……はぁ……ごめん、今日は帰ってくれる?」


 まだ戸惑う女、正確には女の子と呼ぶべき年齢だーーを彰宏は宥めながら服を着せて、「また連絡するから。なにも心配しないで」と甘いキスまで交わし、彼女を送り出した。


「お前、なんで勝手に帰って来た?」

「そ、それは……ごめんなさい」

「はぁ……まぁいいや。メシ作ってよ。なんか小腹が空いてさ」


 彰宏は首をコキコキと鳴らし、グッと伸びをした。それから先ほどまでセックスをしていたソファに腰を下ろし、テレビをつけたのだ。彼の中ではこれ以上話す必要がないと結論づけたのだろう。


 梨乃は呆然としながらも、頭の中は存外冷静に状況を整理していた。不倫相手はこの前電話をかけてきた人だけだと思っていたが、複数人いるようだ。何人いるかは知らないが、最低でも二人いることは確定した。

 電話の相手と今日の相手が同じだとは思えなかった。あんなウブな反応をする子が、不倫相手の妻に電話をかけて宣戦布告するわけがない。


「ねぇ、さっきの子未成年だよね?まさかアキくんの生徒じゃないよね?」


 梨乃はテレビを観ている彰宏の背中に疑問をぶつけた。しかし彰宏はそれに答えない。それどころか「早くメシ作ってよ」だなどと言う始末だ。

 その態度に梨乃の怒りは増幅していく。これは単純に不倫どうこうの話ではない。


「信じられない!犯罪だよ?!あり得ない!」


 何を考えているの?正しい判断ができない、守られるべき子供を、守るべき大人、それも先生という立場の彰宏が手を出すなんて!と、梨乃は彼を糾弾した。


 バチン、と言う音が耳に届いたが、梨乃は状況をすぐに理解できなかった。やや遅れてジンジンとした痛みが頬に広がって初めて、彰宏に平手打ちされたのだと理解する。

 

「出て行きたいならそうすればいい。ここは俺の金で買った家だ。お前が住む権利はない」


 梨乃はもう何も言い返せなかった。


「まぁ、無理だろ?お前は俺に多大な恩があるからな。家族の顔でも思い浮かべてりゃいい」


 彰宏はそれだけ告げると、さっさと寝室に行ってしまった。

 梨乃は残されたリビングで一人、痛む左頬を押さえながら杉田の名前を心で呼び続けた。




 このタイミングで会いたくなかったなと思う。たけど狂おしいほど彼の名を呼んだのは他の誰でもなく梨乃自身なのだから、神様がその望みを叶えてくれたのだろう。


「梨乃さん、」


 ああして離れたのだから、見つけても無視をすることがルールだと思うのだが、そんなことをできないところが杉田らしいなと思う。

 だけど今は呼び止めてほしくなかった。梨乃は杉田に背中を向けて道を歩き出した。


 しかし買い物帰り、電動自転車があるのにそれに跨って漕ぎ出さないのは、深層心理で杉田に追いかけてほしい梨乃の気持ちの表れだ。


 杉田はそんな梨乃の気持ちには気づかない。だけど杉田は梨乃を放っておけない。だから当然梨乃の後を追う。


「待って、梨乃さん、待って!顔見せて」

「や、だ!」

「梨乃さん!」


 杉田の切迫詰まった大きな声を聞いたのはこれが初めてだった。思わずビクリと肩を揺らした梨乃を見て、杉田は「ごめん」と謝る。


「顔、見せて……」


 昨夜彰宏に叩かれた頬はもう赤みも引いており、特段おかしいところはないはずだ。それなのに杉田はしきりに梨乃の頬を気にしている。


 杉田の親指の腹が梨乃の左頬をやわやわと撫でる。梨乃はハンドルを握ったまま、崩れ落ちそうになる足の震えに必死に耐えていた。

 

「梨乃さん、俺……」

「……もう放っておいてほしい。中途半端な優しさはいらない」


 なくした後に余計に辛くなるの、と梨乃は精一杯の強がりで笑って見せた。

 その笑顔に戸惑った杉田が息を呑んだ一瞬の隙に、梨乃は電動自転車に跨り杉田の元を逃げるように走り去った。

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