6-1.手のひらxxx
世界は元通り。あるべき姿に戻り、日常を取り戻した。
彰宏は梨乃へ相変わらずな態度で、世界は色づかない。無味無臭なそれが梨乃の日常だった。
彰宏が不倫をしているという事実を知れば、この人はどうしてわたしと結婚生活を続けているんだろうと、梨乃は疑問に思う。
彰宏にとってのメリットが分からないのだ。無料の家政婦が欲しいなら梨乃じゃなくてもいいだろう。それこそ専業主婦になりたい女性はたくさんいるだろうし。それに梨乃の実家へ生活費を送金していることを考えると、梨乃の家政婦料は他の女性に比べて高いようにも思えた。
まぁどうでもいいか。梨乃は明日からの帰省のパッキングを粛々と進めた。
昨晩彰宏が急に「明日から実家に帰れば?」と話を持ちかけてきたのだ。珍しいこともあると、梨乃は目を見開いた。
なぜなら彰宏は梨乃が帰省することを良く思っていないから。家政婦がいなくなることが不満なのだ。自分のいないところで梨乃が楽しい時間を過ごすことも気に食わないのだ。
本音を言えば梨乃自身もどうしても帰省したいという気持ちはなかった。だけどここで彰宏の好意を無下にしてしまえば、彼は酷く臍を曲げてしまうだろう。だから梨乃は満面の笑みを作り、「ありがとう!」とその提案を受け入れた。
それに杉田と偶然にも会えないところに行けることは、今の梨乃にとってありがたかったのも事実だ。
木曜の朝に彰宏と2人で新幹線に乗り、地元名古屋に帰省した。急なことだったので友人に連絡を取ることもできず、予定なしの一週間が始まった。
土日に会わない?と誘えば予定を合わせてくれる友人もいるだろうが、結婚をしてから全く連絡を取っていないが故、梨乃にとってはハードルが高かった。都合の良い時だけ連絡を取るなんて、あまりにも自分勝手な気がしたのだ。
急な帰省にも関わらず、梨乃の家族は彼女を温かく迎え入れてくれた。久しぶりに見る父母や弟たちにホッとした。が、それは一瞬のことだった。
家族たちは「彰宏さんが」「彰宏さんが」と、彼の素晴らしさを梨乃に延々と語るのだ。
そりゃそうだろうと思う。借金を肩代わりしてくれ、生活費まで送金してくれているのだ。その上暇を見つけては妻の実家に一人で顔を出し、弟たちに勉強のアドバイスをし、細々とした手伝いまでする。梨乃の家族は今や立派な彰宏の信者になっていた。
実家が苦痛だと思う日がくるなど、梨乃は想像もしていなかった。四面楚歌になった気分だ。
「明日は彰宏くんの実家に顔を出すんでしょ?手土産持って行きなさいよ」
「分かってるよ」
梨乃の母が言った通り、明日日曜は彰宏と共に彼の実家に行く予定を立てていた。
まさか当日になって「東京で仕事が入ったから、俺はこのまま帰る。お前は予定通り次の土曜日まで実家でゆっくりしてろよ」だなんてことになるとは思っていなかった。
そうして梨乃は一人で訪れた彰宏の実家で、義母とお茶をしていた。
彰宏の母は積極的に話すタイプではなく、たまに訪れる沈黙が梨乃を急き立てる。何か話さなきゃとグルグルと話題を探すが、義母との共通の話題など彰宏のことぐらいなのだ。
その時、焦った梨乃の頭に思い浮かんだのは杉田の顔だった。
「あ!東京で、彰宏さんが幼馴染の杉田さんという方と再会したみたいで」
梨乃のその言葉に、義母は「あら、そうなの?」と興味を持ったようだ。が、その声音からは再会を歓迎していないことが漏れ伝わってくる。
「杉田……久人くんね。昔はよく遊んでいたけどねぇ」
「あ、中学の進学先が別々で疎遠になったって聞きました」
義母は昔を思い出し、フッと口元を緩めた。それは杉田のことを蔑んでいるような表情であった。
「久人くんね、かなり悪くて、少年院に入ってたこともあるみたいで」
「え……、」
「地元の中学は荒れてたからね。彰宏を私立に入れて正解だったわ」
そこまで言った義母は杉田の話題に興味を失ったのか、そこからは入学した先の中高一貫校で彰宏がどれだけ素晴らしい成績を収めたかを雄弁に語り出した。
梨乃は疲れ切っていた。杉田に関する新しい情報は衝撃的だったが、それは噂の域を出ないし、そもそも梨乃には関係のないことだから思い悩む必要などないのだ。
それよりも梨乃は実家で飛び交う彰宏への賞賛をこれ以上聞きたくなかった。なんだか家族が家族じゃなくなったような感じ。梨乃が助けを求めても、この人たちは彰宏の肩を持つだろうと思うのだ。
梨乃は感情のままに帰省を切り上げた。「土曜日までの予定だったんでしょ?」と寂しがる母に「彰宏さんが家事大変かもしれないから」と言えば、「そうね!早く帰って彰宏くんを助けてあげなさい」と意見を変えるのだから、梨乃はニコリと笑顔を貼り付けた。
そうして帰って来た自宅で梨乃が見た光景は、吐き気を催すほど悍ましいものだった。
夫が裸の女を組み敷いている。そこで腰を必死に振って「気持ちいいか?」と何度も聞いているのだ。
彰宏の下で喘いでいる女は声から察するに随分と若いことが分かった。
それはそれは衝撃的な光景だったが、彰宏に不倫相手がいることは知っていたし、玄関を開けた時点で漏れ聞こえる嬌声と、むせかえるような淫靡な空気になんとなく状況を察していたので、そこまでの驚きはなかった。
それどころか、これがしたかったからわたしを帰省させたんだな、と嫌に冷静に状況を判断できた。
そんな梨乃の頭に鈍器で殴られたような衝撃を与えたのは、彰宏の不倫相手が彼のことを「せんせぇ……!」と呼んだことなのだ。
「せんせっ、きもちいっ、」
「ハッ、ハッ、イク、イク」
梨乃はその場にうずくまった。こんなの許されるはずがないだろうと、口元を押さえる。息ができない。誰か助けて。
その誰かなんて、ただ一人だけなのに。梨乃は心の中でも彼の名を呼ぶことを躊躇った。
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