5-3.愛おしいからいらない
知らないふりをしようかと考えたことも事実だ。だけど万が一、杉田との関係が彰宏にバレた時、彼は杉田を必要以上に追い詰めるだろうと思った。他人よりも自分の知人に妻を盗られる方が余程ダメージがあるからだ。あの彰宏が慰謝料ごときで許すわけがない。
それにそうなったときの杉田が感じるだろう自責の念の大きさを考えると、やはり梨乃は黙っていられなかった。
話があるの、と杉田を誘えば、何事だろうという彼の緊張が電話越しに伝わってきた。
だから今、梨乃の横に座っている杉田がソワソワと落ち着かない挙動をしているのは、当たり前なのだ。
「話ってなに?俺、いろいろ考えちゃってさ……」
杉田はそう言うと、キャップを目深に被り直した。
「そうなの?ごめんね、変な誘い方で煩わせちゃったね」
「いや、俺が勝手に被害妄想膨らませてるだけで……その、ごめん、初めに確認しておきたいんだけど……」
もう会えないとかじゃないよね、と、杉田は恐々と梨乃へ問いかけた。
梨乃がそれを明確に否定できなかったのは、もう会わないという選択をするしかなくなるかもしれないからで。曖昧に首を傾げた梨乃を見て、杉田はきゅっと唇を引き結んだ。
「あの、この前たまたま見ちゃったの……」
そう話し始めた梨乃は、我ながら遠回しに言うなと、自嘲する。しかし核心に触れることが恐ろしいのだ。こうなっても、できるだけ長く杉田のそばにいたいと、愚かにも時間を引き延ばしてしまう。
「見た?何を?」
「この前の土曜日、駅前にいたよね?」
杉田は「あぁ、あれ土曜日だったかな?」と思い出しながら頷いた。未だに要領を得ない梨乃の喋り口に苛立つこともせず、真剣に耳を傾けてくれている。
これが彰宏なら「で?何が言いたいの?普通は結論から言うんだよ。常識だろ」とでも言って、早々に興味を無くしているだろう。梨乃は比べてはいけないと分かっているのに、どうしても杉田と彰宏を比べてしまう。
それは些細なことでも、だ。例えば、杉田の今の格好ーー白いTシャツにデニムというシンプルなものなのだが、杉田はそれだけでサマになる。ガタイの良さと顔の華やかさ、そして彼の太陽のような明るさと夏のような清涼感が、そのスタイルとよくマッチしている。
一方の彰宏はブランド物を好んで着用しているのだが、それは彼の虚栄心をそのまま表しているようで、梨乃は好きになれなかった。
別にブランド物を着用することはいいのだ。そのブランドに相応しい振る舞いをしたり、それによって自分の価値を上げることも素晴らしいと思う。だけど、彰宏はブランド物を着ることで、それを着られない人たちを牽制し、見下しているから、梨乃はやはりどうしても好きになれない。
そんな2人が友達ないしは知人だと、梨乃はまだ信じられずにいた。
「わたしもちょうどそこにいて、さ。ほら、駅前のスーパーに行ってたの」
「そうだったの?!声かけてくれたら良かったのに〜」
徐々に核心に近づいているのだが、それを知らない杉田は無邪気な笑顔を見せた。
「……うん、ほら、その時、杉田さん、誰かと一緒にいたから」
「……あぁ、そうだそうだ。あの人ね、小学生からの友達なんだよ」
いわゆる、幼馴染ってやつ?と、杉田は左頬の傷を指先で何度も擦る。その答えを聞いた梨乃は深い溜息を吐き、いよいよ覚悟を決めた。
「あ、の、その人、あのね!」
「ん?」
杉田は眉を上げて梨乃の言葉を待ってくれている。息が上手く吸えなくて呼吸が短くなる。そんな異変に気づいた杉田は、梨乃の背中を大きな手でそっとさすった。
「梨乃さん、大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」
やっぱり杉田のそばにいると息ができる。世界の全てに感謝したい気持ちになる。だけど、だから、梨乃は杉田を解放してやらなければと思うのだ。
「わたしの夫なの!杉田さんの、その、友達?わたしの夫なの」
「え……あ、アキくんが?」
杉田の口から"アキくん"と出てしまえば、梨乃はもう認めて、諦めるしかできなくなった。杉田は杉田で、まだハッキリと掴めていない全容に戸惑っているのか、梨乃の背中に置いた手に不自然な力を込めた。
「……はは、友達なのビックリした……。その、杉田さんとアキくん……、夫はあまりにもタイプが違うから」
梨乃の口からは乾いた笑みが漏れた。もう笑うしかない。突きつけられた現実は笑える状況ではないのだが、笑わないとやってられない。
「あぁ……家が近所で、幼馴染ってやつだったから……中学からはアキくんが私立に行ったし」
そんな関わりもなかったよ、と杉田は梨乃の疑問に答えた。
ではなぜ、関係が希薄になった2人が、地元から離れた東京で再び顔を合わせたのか。あの日駅前で深刻そうに何を話していたのか。
梨乃の中にいくつかの疑問は浮かんだが、それを聞いたところで杉田との関係の終着点は決まっているのだ。それならばもう杉田のことを知る意味など何もない。思い出は多ければ多いほど、離れた後にふと思い出して苦しめられると、梨乃は知っている。
「そっか……。あのね、わたし、わたしは、自分を偽らない、繕わない、そのままで生きてる杉田さんのことが」
それなのに相手には自分との思い出をより多く持っていてほしい。そうすれば、繰り返す日常の些細な折に自分のことをふと思い出してくれるかもしれないから。
だからこそ、梨乃は最後に杉田に想いを伝えて呪いをかけようとした。だけど、杉田はそれを許してくれない。
「違う!それは違う。俺はそんな人間じゃない。買い被りすぎだよ。本当の俺を知れば梨乃さんは、幻滅する」
杉田の悲痛な胸の叫びを乗せた声音と、今にも泣いてしまいそうな表情を見て、梨乃は"こんな顔もするんだ"と、"新しい杉田を知りたくなかった"と力なく笑う。
人目につきたくないからと言った梨乃に配慮して出してくれた杉田の車内は、クーラーがガンガンに効いており、外の暑さが嘘みたいな涼しさだ。窓の向こう側の景色が蜃気楼のように歪んでいるのは、梨乃が泣いているからなのだろうか。
「そっか……。それならとことん幻滅させてほしい……そしたら杉田さんのこと、」
諦められる。好きな気持ちを消せる。会いたいと思わなくなる。毎日毎日今何してるんだろうと考えなくてすむ。あり得ない未来を想像しなくていい。
梨乃はその全てを飲み込んで、俯いた。
「……俺たち、もう会わないでおこう」
「……一人にしないって言ったのに、」
間違ったと思った。ここは「そうだね」とその提案を受け入れる場面だ。
だけど梨乃の口は勝手にその恨みがましい言葉を吐き出した。違う。これじゃない。こんな面倒なことを言いたかったわけじゃないのに。
「……ごめん。だけどやっぱり駄目だ。アキくんの奥さんだって知ってたら、こんな風にはならなかった」
酷い人だけど、やっぱりどこまでも正直な人だと、梨乃は口角を緩く持ち上げた。
そりゃそうだ。友達の妻に手を出してなんのメリットがある?そんな危ない橋を渡らなくても、杉田になら素敵な女性がたくさんいるだろうし、これからも現れるだろう。わざわざ危険を冒してまで、梨乃と逢瀬を重ねる必要などないのだ。
「後悔しかないの?」
この問いに杉田がなんと答えるか、梨乃は分かっていた。
「そうだね。後悔ばかりだよ」
杉田の答えは予想通りのものだった。
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