5-2.ただひたすらに愛おしい
今日の梨乃は朝から頭が重かった。風邪をひいたとかではなく、低気圧のせいだろう。幸いなことに今日は土曜日で、彰宏の夕飯を作る必要がないから薬を飲んで横になっていようと、梨乃は重い身体をなんとか起こす。
確かつい先日新しい頭痛薬を買ったはずだ。ここまで痛くなるなら朝一で薬を飲むべきだった。そんなことを考えながら、梨乃は薬が入ったカゴを引っ張り出した。
薬二錠をそれに対しては大量の水で喉に流し込んで、梨乃はソファに横になった。
ボーッとすればこの間の己の愚行を思い出して一人羞恥に悶えてしまう。なんであんなことしちゃったんだろ。夜の海っていう雰囲気に流されちゃったとしか思えない。杉田さん、すごい戸惑ってた。絶対尻の軽い女だって軽蔑されたよ。
「あーーーっ、もうやだ、消えたいっ……!」
頭に血が昇ってさらに頭痛が悪化しそうだが、梨乃は何度もあの日を後悔していた。ただ唯一の救いは杉田が「梨乃さんに会いたい」と言ってくれたこと。まだ杉田との繋がりが切れていないことだった。
だけど次会う時ってどんな顔をして会えばいいんだろう。もう一回ぐらい謝って、忘れてほしい、もうしないと連絡した方がいいのだろうかと、梨乃はスマホを手に取った。
「こ、の、あ、い、だ、は、」
文字を読み上げながら打ち込む梨乃は、「えー、やっぱしつこいかな。もう気にしてないかな」と一度打ったそれらを一気に消して、再びウジウジと悩み出した。
こんなときすぐに会える関係ならここまで悩まなくてもいいのに、と梨乃は溜息を吐く。ダメだ。今は全部悪い方に考えてしまいそうだ。頭痛いし、寝ようと梨乃が目を瞑ろとしたその時、スマホが着信を知らせた。
着信の相手は梨乃の母親であった。その電話に出ると、あちらは梨乃と違い『今大丈夫〜?』と弾む声で、随分とご機嫌なようだ。
「どうしたの?なにかいい事でもあった?」
『あら、わかる〜?実はね、昨日の夜彰宏くんがウチに寄ってくれたのよぉ』
「……あ、そうなんだ」
梨乃の母が言うに、夕飯を一緒に食べて、その上双子の弟たちの勉強まで見ていってくれたらしい。
『本当に素敵な方と結婚できて良かったわね』
と、彰宏のことを褒めちぎる母の評価を聞きながら、自分の夫のことを"相変わらず抜かりないな"としか思えないのは、梨乃の心が荒んでしまったからなのか。
『あとは孫の顔もねぇ』
その言葉が追い討ちだった。薬を飲んたはずなのに先ほどよりも頭の痛みが酷くなってきた気がする。
梨乃は「ごめん、頭が痛いから……」と言うなり、母との通話を強制的に終わらせた。
頭痛薬が効いてきたのか、寝て起きた時には痛みは引いていた。が、問題は母との電話で感じたモヤモヤが解消されていないことだ。
そのモヤモヤにプラスして、今日も帰って来ない彰宏はどうせ不倫相手とよろしくやってるんだろうと思えば、たまにはハメを外してみるかと、梨乃は妙案を思いついた。
電動自転車を漕ぎ出した梨乃が目指しているのは、高いお酒がずらりと並ぶ、あの駅前の高級スーパーだ。
そこで普段は飲めない高いお酒をしこたま買って、ついでに良いおつまみなんかも買っちゃって、一人楽しく酒盛りをしてやろうと企てたのだ。
自分のためにお酒を買うことがこんなにワクワクすることだったなんてと、梨乃は頬を緩めた。そういえばここのところずっと観ていなかったバラエティ番組を酒のあてにするのもいいかも、とエコバッグを自転車のカゴに入れて、ふと進行方向とは反対側に視線をやった。
「え……杉田、さん?」
最初は見間違いだと思った。いや、ここは彼の最寄駅でもあるのだ。だから杉田が駅前にいることはなんらおかしなことではない。
梨乃が見間違えたと感じた理由は、その杉田が彰宏と並んでいたからなのだ。
この際、"今日も名古屋に泊まる"と言った彰宏が東京に帰って来ていることは置いておこう。今はそんなことよりも、もっとずっと大事なことがあると、梨乃は咄嗟に身を隠して2人の様子を窺った。
どこからどう見ても、彰宏の横にいるのは杉田で、しかも彼らは何やらコソコソと深刻そうな話をしている。
その雰囲気を見るに、たまたま今知り合ったわけではなさそうだった。どれほど前からかは分からないが、明らかに以前から知り合いだったのだろう。
梨乃は治ったはずの頭痛が再発しそうだと頭を抱えた。きっと、というか、確実に杉田は彰宏の妻が梨乃だということを知らない。
知っていれば、彰宏を裏切って梨乃と2人で会うことなどしなかっただろう。杉田のそういった人柄は、もう十分すぎるほど伝わっている。
この事実を杉田に告げなければいけない。しかしそれは杉田との逢瀬を、梨乃の心の支えを絶つことでもあるのだ。
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