5-1.髪xxx

 鼻先を擦り合わせ、「大切なんだ」と告げられたあの日から、木曜から土曜の3日間は杉田と過ごす大切な時間になった。

 肌を重ね合わせるどころか僅かな甘い接触もないプラトニックな関係を、事情を知らない世間は非常識だと、気持ち悪いと非難するだろうか。

 それでも梨乃にとって杉田との時間は、何ものにも代え難い宝物のようであった。


「夏の夜の海ってサイコーだね!」

「うん!風が気持ちいいね」


 今日は杉田の運転する車で少し遠出をして海までやって来た。

 防波堤に並んで座って遠くの波の音に身を任せれば、まるでこの世には杉田と梨乃の2人しかいないような静寂が訪れる。

 

 夜風に髪を靡かせながら「涼し〜」と微笑む杉田の横顔を見て、梨乃は彼が好きだなと心底思った。その想いを口にすることは決してないが、その想いは無視できないほど大きく膨らんでいる。


 寄せては返す波がこの甘く儚い感情をさらってくれたなら楽になるのかなとも思うが、自分の中だけで育てていくつもりだからもう少し浸らせてほしいなとも思う。それぐらいなら許されるだろうか。


「うおっ、風強くなってきたね。梨乃さん大丈夫?」

「あは、大丈夫じゃない〜!髪がボサボサになってる」


 突如強くなった海から吹く塩を含んだ風が無遠慮に髪を撫でていく。バタバタと音を立てて揺れる髪が梨乃の視界を奪う。何度耳にかけても瞬間的に外れてしまうので、梨乃は笑いながら「もういいや」と諦めた。


「これじゃあ、前見えないね」


 そう言った杉田の両手が梨乃の髪を撫でつけるように押さえた。


「俺がずっとこうして押さえておこうか?」

「え〜?ずっと〜?言ったね、ほんとにずっとよ?」

「うん……うん。俺はできるよ、ずっとこうして……あ、ごめん、やっぱりダメだ」


 と言った杉田の手がやわやわと梨乃の髪を躊躇うように撫で、「俺の髪がやばいことになる」と笑いながらその手を離した。


「あはは、ほんとだ、ひどい!あははっ、」

「ちょっと〜、笑いすぎだからね〜」


 普段の杉田は必ずと言っていいほどキャップを被っていた。邪魔な前髪をキャップの中にしまい、おでこを出すスタイルは、快活な彼とよくマッチしていた。

 

 それなのに、杉田は今日に限ってキャップを被っていないのだ。彼の長い前髪が風に揺らされている。その前髪が杉田の魅力的な目元を隠すから、梨乃はつい邪魔に感じて、自身の指先で杉田の前髪を掻き分けた。


「髪柔らかいね」

「ん?あぁ、見た目よりずっとサラサラでしょ?」


 そんな突然の触れ合いに、杉田は一ミリも動揺を見せない。

 やっぱりこの人はわたしに特別な感情を抱いていないのかな、と梨乃は自分勝手に悲しくなった。杉田に触れられてあれほどドキドキとした自分が馬鹿みたいだ。杉田は、夫に浮気をされた可哀想な女に同情してこんなに気にかけてくれているのだろうか、と梨乃は杉田の顔を見つめた。杉田の心中を察せやしないかと思ったのだ。


 だけど梨乃がどれだけ熱っぽく見つめても、前髪に触れた指先を滑らせて左頬の傷をなぞってみても、杉田は優しい笑みを崩さない。


「なぁに?いつもの梨乃さんぽくないね。嫌なことでもあった?」


 左頬を縦に走る傷跡を往復していた梨乃の指先を杉田がそっと握った。いつのまにか風は止み、波の音が夜を静かに包む。

 触れたらダメじゃん。たったこれだけの接触で、我慢ができなくなる。もっと触れたいと思ってしまう。梨乃は杉田の問いかけに曖昧な笑みを浮かべた。


 日常は相変わらずで良いことも悪いこともない、無味無臭な物だ。梨乃が生きていると思えるのは杉田のそばにいる時だけ。彼の隣は息ができる。景色に色がつき、食べ物の味がする。長所のない自分のことを悪くないかもと思える。


 梨乃は杉田をもっと近くで感じたかった。別にその先を望んでなどいなかった。ただ、杉田の鼓動を一瞬でも感じたかったのだ。


「梨乃さん、ダメだよ」


 その杉田の言葉と、唇に触れた杉田の手のひらの存在で、梨乃は自分が杉田にキスを迫ったことに気がついた。

 そしてその己のみっともない行動と、さらに追い討ちをかけるように杉田に拒否された事実を理解した途端、梨乃は耐え難い羞恥に襲われた。


「かえる、わたし帰る!」


 すっくと防波堤に立ち上がったかと思えば、梨乃はそこからピョンと飛び降りた。この突然の行動に驚いた杉田は「え、ちょっと、一人で?!」と慌てて梨乃を追う。


「そう、一人で!」

「こっから一人でどうやって帰るのよ」

「……歩いて!」

「いや、無理だから!危ないし、そもそも無理だから!」


 無茶苦茶なことを言っているなと、杉田は梨乃の腕を掴んで引き止めた。が、梨乃は杉田の顔を見られないようで、肩で息をしながらずっと俯いたままだ。彼女に恥をかかせてしまったなと、なんて声をかけようかと、杉田は左頬をぽりと掻いた。


「ごめん、さっき……わたし最低なことをしようとした……忘れて……ごめんなさい」


 杉田が苦慮している間に、梨乃はそう言葉をこぼした。まだ杉田の顔こそ見れないが、徐々に落ち着きを取り戻したようで、梨乃はしきりに謝罪を口にする。

 しかし杉田はこの言葉にもなんと返せばいいのかを悩んでしまう。「謝ることはない。本当は俺だって……」などと、自分の気持ちを正直に告げることは到底できないのだ。だけど「気にしてないよ」とは口が裂けても言えない。あの梨乃の行動をなかったことにしたくない。


「もうしようとしないから、これからも今まで通りに会ってくれる?」


 一向に口を開かない杉田をこれ以上困らせたくなくて、そしてそれ以上に拒絶の言葉を聞きたくなくて、梨乃は続け様にそう問いかけた。


「……もちろん。俺が梨乃さんに会いたいんだよ?」


 それが杉田の精一杯だった。

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