4-3.この手がキミを傷つける

 梨乃の気持ちによって、コロコロと利用するスーパーは変わる。今はまた駅前の高級スーパーばかりに通っている。梨乃にとっての一番は杉田に会わないことだからだ。


 彰宏との関係は良くも悪くも変わらない。不倫相手からの接触はあの時の一回限りだったが、まだ続いていることはこっそりと覗き見た彰宏のスマホで確認できた。

 

 杉田が言うように証拠を集めても、それを活用する日はこないだろう。プライドの高い彰宏が梨乃からの離婚の申し出をすんなり受け入れるとは思えないし、そうでなくても梨乃は彰宏との離婚を望めない理由があった。


 梨乃の実家は古い定食屋を営んでいる。そして梨乃には歳の離れた双子の弟がいる。来年大学受験を控えている2人は今必死で予備校に通っていて、梨乃の両親もその費用を必死で捻出している。

 いや、正確には捻出できていないのだ。梨乃が彰宏と結婚するにあたり、彰宏は梨乃の実家の借金を返済してくれた。「貯金ばかりしてたので」と躊躇いなく大金を肩代わりしてくれ、その上今はいくらかの生活費も送金してくれている。

 梨乃は彰宏に感謝している。彰宏がいるから梨乃も梨乃の実家も生活ができているのだ。だから不倫ぐらいなんてことないし、小間使いも別に平気だと、そう言い聞かせてきた結婚生活だったし、これからもそうなのだろう。




 ここのところの梨乃は、電動自転車で川沿いを走ってからスーパーへ買い物に行くことが日課になっていた。暑いのは当たり前だし、日差しなんて火傷しそうなほどの強さなのに、風を受けながら解放的な場所を走ることで不思議と心が軽くなる気がする。

 だから今日もそうした。だからまさか河川敷をこちらに向かって走って来ている人物が杉田だなんて、そんな偶然が起こるだなんて、梨乃はこれっぽっちも期待していなかった。


「あ、れ、梨乃さん?」

「わ、杉田さん……!……偶然ですね」

「あぁ、はは、ほんと。あ、ちょっと待って、俺今めっちゃ汗かいてるから」


 近寄らない方がいいと言う杉田はランニングをしていたようで、彼の額からはダラダラと汗が流れている。それが顎を伝い、地面にポタリと垂れた。


 引っ張られる。その光景に、杉田の存在に。杉田から立ちのぼる香りが梨乃の理性を溶かしていく。このままどこか、誰も知らないところに2人で行きたいだなんて、何も知らない子供じゃあるまいしと、梨乃はかぶりを振った。


「それじゃあ、わたし用事があるので」


 行きます、と梨乃が言えば、杉田は一瞬傷ついたような顔を見せた。その表情に梨乃の心もツキリと痛む。なんだかとても酷いことを彼にしているみたいだ。


「待って……、そんなふうに壁を作らないで」

「え?壁なんて、そんな」


 と、杉田の言葉を否定しながら、梨乃は自分の心の中を見透かされたのかと思った。だけどそうでもしないと今にも杉田に縋ってしまいそうなのだから、どうか許してほしい。

 そんな梨乃の心情を無視するように、杉田は一歩一歩と梨乃との距離を詰め始める。


 ここを離れなければ。彼から距離をとらなければと頭では理解しているのに、梨乃の足はそこに縫い付けられたかのように動こうとしない。電動自転車のハンドルを持つ手に自然と力が入った。杉田から目が離せない。


「頼むから、一人になろうとしないで」


 それは杉田の祈りだ。


 杉田の大きな右手が恐る恐る梨乃の左頬に触れた。そんな彼の行動に、梨乃は反射的に顔を右斜め下へと背けてしまう。

 そんな梨乃を見て、杉田は余った左手で梨乃の右頬を包んだ。その行為が、まるで俺から逃げるなと、一人にはさせないと言われているようで、急拵えで作った梨乃の心の壁などはあっさりと壊されてしまった。


「…………」

「………………」


 2人の間に沈黙が流れ、互いが互いの心の内を探るように見つめ合う。


 蝉が鳴いている。直射日光が容赦なく降り注ぐ。じとりじとりと汗が噴き出て、流れ落ちる。杉田の匂いがする。梨乃は、この人がほしいと、強く思った。


 瞬きをするたび、ゆっくりと杉田の顔が近づいてくる。ダメだ。胸を押し返して、「やめて」と言わなければ。だけど口を開けば陳腐な愛の言葉を囁いてしまいそうで、梨乃はぎゅっと唇を引き結んだ。

 

 杉田は杉田で一向に目を閉じず、それはまるで梨乃との全てをその目に焼き付けようとしている気迫さえ感じられる。


 唇が合わさる距離まで近づいた杉田は、しかしそうはせずに、そのツンとした高い鼻先を梨乃の小さな鼻先に軽く擦りあわせて、それからゆっくりと言葉を紡ぐ。


「梨乃さんのことが大切なんだよ」


 杉田のその言葉に、梨乃の瞳からは涙がハラハラとこぼれた落ちた。

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