4-2.この手で大切にしたいのに

 会いたいと願っても、梨乃は杉田に連絡を取らなかったし、杉田から連絡がくることもなかった。

 だけど梨乃は足繁くあのスーパーに通っている。結局また贔屓のスーパーを変えた。それぐらいしてもバチは当たらないだろう。偶然会うなら、故意ではないなら、それは仕方ないことなのだと、自分自身の良心への言い訳を並べた。


 その日、杉田はあの公園のベンチに座っていた。アイスを食べているわけでもなく、スマホを触るでもなく、ただ座っていた。

 その姿を見た梨乃は声をかけることを躊躇った。梨乃の知っている気さくで快活な杉田からは想像もつかないほどの陰鬱とした雰囲気を纏っている。


 その公園は道路に面しているため、梨乃が自宅に帰るには杉田に気づかれる可能性が高かった。  

 なので、ここは通れない、と梨乃は電動自転車を後ろに下げ方向転換を試みた。アスファルトの上に散らばった砂利とタイヤが擦れて僅かな音を立てたが、そんなものは車が走行する音と比べれば些細なものだ。それなのに。


「梨乃さん、」


 また気配を感じたとでも言うのだろうか。切なげに名前を呼ばれてしまえば逃げられるはずがない。梨乃も「杉田さん、」と彼を呼んだ。

 それをきっかけに杉田は太陽のような笑顔を見せて、おいでおいで、と梨乃を呼び寄せた。


「買い物の帰り?」

「……うん。最近毎日行ってるの」

「そうなの?!……俺は梨乃さんと遊んだ日から一回も行ってないよ」

「……えぇ?どうして?」


 梨乃のその問いかけに杉田は答えなかった。ただ、見ている方が泣きたくなってしまう笑顔を浮かべるだけだ。


「梨乃さんも元気ないね。なんかあった?」


 何かがあったかと聞かれれば、人生を揺るがすようなことがあったのだが、しかし何もなかったような気もする。

 彰宏の不倫発覚は梨乃の中でその程度のものだった。やっぱりなという諦めの気持ちの方が悲しみや憤りより余程大きかった。それに発覚したからといって、梨乃と彰宏の関係性に変化は全くないのだから、それはもう何もなかったことと同じような気がするのだ。


「うーん……ふふ。夫の不倫相手から電話があった」


 どうしてそれを杉田に言ったのか。同情をしてほしいわけではない。それよりもこれは誘い水だと、梨乃は自分の行いの浅ましさを理解していた。


「……なんだそれ。……梨乃さん、俺こういう時なんて言ったらいいか、」

「いいの。ただ聞いてほしかっただけだから」


 梨乃より杉田の方がずっと彰宏に憤っているようで、指先がトントンと忙しなくテーブルを叩く。それでも自分自身が梨乃を飛び越えて立腹することはおかしいと考えたのだろう。なんとか気持ちを落ち着けるように長い息を吐いた。


「……証拠、集めた方がいいって言うよね、こういう時って」


 そして息を吐き終えると、杉田はそう口にした。なんだか杉田らしからぬアドバイスだと思ったが、梨乃は「そうだよね」と何度か頷いた。




 杉田は公園の時計に目をやり、「もう帰らなきゃ」と立ち上がった。「この後予定があって」と言うのだから、梨乃は"もう少し一緒にいたい"とは到底言えないし、そもそもどんな理由があろうがそれは言ってはいけない。


「……うん。じゃあ、また」

「うん!じゃあね、気をつけて帰って」


 杉田はその整った顔の横でヒラヒラと手を振った。梨乃もそれに振り返し、杉田に背を向けて電動自転車のハンドルに手をかけた。


「待って、……やっぱり放っておけない」


 その時、そう言った杉田が梨乃の腕を掴んだ。それほど強い力は込められていなかったのに、梨乃はつい体を反転させて杉田と向き合ってしまう。

 そこで見た杉田の顔は眉根に皺を寄せた苦悶の表情を浮かべていた。それだけで杉田が先ほどの言葉をかけることをどれだけ躊躇ったかが分かる。そんなことを言わせてごめんねと思うのに、梨乃はそれ以上に嬉しさと愛おしさでどうにかなってしまいそうだった。


「俺のこといつでも呼んでほしい」

「…………」

「俺じゃダメかな?俺じゃ、梨乃さんのこと助けてあげられないかな?」


 そんなの駄目なわけがないと、今でもわたしはあなたの存在に助けられているのだと、このまま杉田の広い胸に飛び込めたならどれほど幸せだろう。

 だけどそんなこと、この純粋で温かい日の光が似合う杉田を仄暗い罪の道へ引き摺り込むことなど、梨乃にはできない。


「心配してくれてありがとう。だけどこれはわたしと夫の問題だから」


 梨乃は杉田の腕をそっと外す。そうされて、杉田は「わかった」と「でしゃばってごめんね」と、そっと目を細めた。それは無理矢理作った歪な笑顔だった。

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