4-1.鼻xxx
梨乃はまた駅前の高級スーパーに通うようになった。それは杉田と偶然に会う確率を減らしたいからだ。本当はスマホに登録している彼の番号も消そうと思った。だけどそれがどうしてもできない。決心がつかないのだ。
いつか自然と消せる日がくるだろうと言い聞かせた梨乃のスマホには、まだ杉田の番号が残っている。
「あ、おかえりなさい!」
放心状態でスマホを眺めていた梨乃の耳に、玄関のドアが開く音が聞こえた。慌てて表情を作りパタパタと出迎えれば、そこには機嫌の悪そうな彰宏が立っている。あぁ、仕事が忙しかったのかな、と梨乃は彼から荷物を受け取り、「お風呂沸いてるよ」と端的に告げる。
ここでグダグダと「疲れてるね、お風呂に浸かって癒されてきたら?」とか「外暑かったでしょ?汗流してスッキリしてきなよ」だなんて言おうものなら、盛大な溜息で人格を否定される未来が待っているのだ。
彰宏が風呂場へ行くと、梨乃は彼の荷解きを始めた。早く洗濯をして乾燥までを終わらせてしまいたい。水曜日にはまた荷造りをしなければいけない。梨乃は洗濯の仕分けをしながら小さな溜息を吐いた。
新婚当初はどんなに遅くなろうが土曜日には梨乃の待つ家へ帰って来ていた彰宏も、いつ頃からかこちらで予定がなければ日曜の昼過ぎに帰って来るようになった。
なので今の彰宏のルーティーンは日曜から水曜に自宅で寝て、木曜から土曜は名古屋の彼の実家に泊まるというものだ。下手したら水曜の夜に東京の職場からそのまま名古屋に行くことだってあるんだから、もうどっちが本宅か分からないぐらいだ。
そろそろ夕飯の支度をしなくてはと、梨乃が重い腰を持ち上げると、彼女のスマホが着信を知らせた。梨乃に電話をかけてくる相手など実母ぐらいなものだ。なにかあったかな、と画面を見れば、そこには電話番号が映し出されているのみである。
間違い電話か業者からの電話だろうかと、梨乃が一瞬躊躇した間にその電話は切れた。が、間髪をいれずにまたかかってきたものだから、知り合いかもしれないと、梨乃は恐る恐るその電話をとった。
しかし相手が誰か分からない電話は怖い。梨乃は通話ボタンを押しながら、「もしもし?」とも「はい?」とも言わず、相手の出方を待った。沈黙が流れる。どうやら相手もこちらの出方をうかがっているようだ。
『……梨乃さん、ですか?』
そうして漸くスマホから聞こえた鈴を転がすような声に梨乃はドキリとした。瞬間的に冷や汗が流れ出し、焦燥に駆られた鼓動はドッドッドッと脈を打った。
「はい、どちら様ですか?」と聞いた梨乃の声はハッキリと震えている。わたしはいったい何に巻き込まれているのだと、唾をごくりと飲み込んだ。
電話相手の女は案の定、『彰宏さんと付き合っています』と梨乃に告げた。予想通りの言葉だったのに、いざ言われるとそれなりに戸惑ってしまう。梨乃は「そうですか」としか言えなかった。他に相応しい言葉も思い浮かばなければ、心の底から湧き出てくる言葉もなかったのだ。
『彰宏さん、奥様と別れて私と結婚してくれるって言ってました』
「へぇ……そうですか」
『セックスもつまらないから抱く気にならないって。女として見れないらしいですよ?』
「へぇ、知らなかった」
『……早く解放してあげてくださいね』
自分の言いたいことだけを言うと満足したのか、その女は梨乃の返事も聞かずに電話を切った。
そうか、やっぱり不倫してたのか。あまりにも予想通りな出来事にだんだんとおかしくなって、梨乃はクスクスと肩を震わせ始めたが、すぐに自分のやるべき事を思い出す。
「あ、そうだ、ご飯作らなきゃ」
彰宏が風呂から上がって来たときに何も手付かずではまた嫌味を言われてしまう。今日はなにを作ろうかな。そうだ、ビビンバが食べたいって言ってたな。梨乃は鍋に湯を沸かした。
「ふふっ。お似合いの夫婦だよねぇ」
にんじんを細切りにしながら梨乃は笑った。そしてふとおでこを触る。青痣から黄色に変化したそこは、触れてももう痛みを感じない。思い出すのは杉田の指先が触れた瞬間の全身を駆け巡る甘い痺れと、相反するような胸の痛みだけだ。
会いたい。杉田に会いたい。と、梨乃の願いはそれだけだった。
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