3-3.おめでとうは似合わない
帰る方向は同じなのだ。だから「別々に帰りましょう」と言うのはあからさまに失礼な気がする。そういうことにしておこう。梨乃は揺れる電車の中、楽しそうに話す杉田の顔を見てそう思った。
「あ、そうだ、アイス大丈夫でした?」
それは公園のベンチに座ってアイスを食べたあの日を心配しての言葉だった。
夜と言っても真夏なのだ。よくよく考えれば大量にアイスを買った杉田は、悠長にベンチでアイスを食べている場合ではなかったのだ。彼がすべきことは一刻も早く家に帰り、アイスたちを冷凍庫にしまうことだった。
帰ろうかとなった頃に「他のアイス溶けてませんか?」と梨乃が漸く気づいた。杉田は「あー、」と微妙な声を出して、「アイスたちがお互いを冷やしてると思うから大丈夫だよ」と言っていたが、実際はどうだったのだろうか。
「あー、あれね。……微妙に溶けてた」
「えー!やっぱり……!楽しくて長居しちゃったもんね……ごめんね」
「えっ!!?」
杉田が驚いたように突然大きな声を上げたものだから、梨乃もつられて「えっ?!」と小さく体をびくつかせた。
いったい何事かと、他の乗客たちの視線が一斉に2人に集まる。杉田はそれに「すみません」と頭を下げてから、梨乃にも「ごめん」と力なく笑った。余程恥ずかしいと感じたのだろう。
「声大きすぎた。梨乃さんが楽しいとか言うからさぁ〜」
嬉しくて、と言った杉田は照れたのか頬を掻いて、「ははは」とその場を誤魔化したのだった。
最寄駅に着くと、杉田が「梨乃さんは自転車?」と首を傾げた。杉田と会うときはいつも自転車に乗っていたので、そのイメージが強いのだろう。し、杉田の予想通り、梨乃は今日も電動自転車でここまで来ていた。
そうだよ、と頷いた梨乃に、杉田は「じゃあ、ここでバイバイかな」と告げる。
「俺、歩きだからさ。梨乃さんは自転車でピューっと帰りなよ」
「そんな!わたしも一緒に帰るよ」
「そうなの?嬉しいけど……大丈夫?」
それは何を心配してのいるのだろう、と梨乃は分かりきったことを考えた。
「アイスもないし、大丈夫だよ」
「ふっ……溶ける心配しなくていいね」
そう言って、杉田は諦めたように笑う。杉田は優しい男だ。きっとこの状況に少なからず罪悪感を抱えているのだろう。
「夫には言ってあるから、今日のこと」
それはもちろん嘘だ。しかしこの言葉で、だから大丈夫だと、あなたが罪悪感を覚える必要はないのだと、梨乃は暗に示した。杉田に"まずいことしちゃったな"と、今日を後悔してほしくなかった。
それだけではない。梨乃は杉田に、夫がいる身でありながら、フラフラと他の男と2人で出かけるだらしない女だと思われたくなかった。だから嘘をついた。
杉田はその嘘を信じ、「理解のあるご主人だね」と彰宏のことを褒める。しかし梨乃はその言葉に上手く反応を返せなかった。
「しかもあのマンションに住んでるってことは、優秀な方なんだろうね」
素敵な梨乃さんとお似合いだね、と言いながら、杉田はカリカリと左頬の傷を触る。
そんな杉田の煌めく瞳の奥に宿るものが光も通さない絶望だということに、梨乃は気づかない。この時点で気づけるはずがなかった。
「きゃっ、」
彰宏のことを手放しで褒める杉田に複雑な感情を抱いた梨乃は、足元ばかりを見ていた。だから、家の外壁から道路にはみ出して伸びている木の枝にギリギリまで気づかなかった。
梨乃が短い悲鳴を上げたのは枝の葉っぱが彼女のおでこを掠めた時だ。一瞬なにがそこに当たったのかも分からずに、梨乃の体は脊髄反射でそれを避けようと頭を下げた。そしてその勢いのまま、梨乃は自転車のハンドルにおでこをぶつけてしまった。
文字にすれば"ゴチン"とか"ゴッ"とかの鈍い音だったと思う。あまりの痛さに梨乃は声も出せず、その場で立ち止まった。
一瞬の出来事にまだ状況を把握できていない杉田だが、とりあえず梨乃がおでこをぶつけたということだけは分かった。
「大丈夫?!見せて、怪我してない?」
杉田は梨乃の手から自転車のハンドルを預かり、スタンドを立てた。それから「大丈夫だよ」となんとか笑顔を浮かべる梨乃の顔を心配そうに覗き込む。
「すごい音したよ、見せて」
「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから!」
何度も大丈夫と繰り返す梨乃の制止を無視し、杉田は彼女の前髪をサラリと横に掻き分ける。
「ここだ、赤くなってる」
そう言った杉田の指先が優しく触れて、梨乃は思わず体をすくめた。体中を走り抜けたビリビリとした刺激は、きっとぶつけたおでこの痛みだ。
夏の生温い風が2人の間を通り抜ける。蝉の鳴き声がどこか遠くで聞こえる。杉田の指先がおでこを離れて寂しそうに宙を彷徨い、彼は「ごめんね」と苦しそうに眉尻を下げた。
もう会わない方がいい。会ってはダメだと、梨乃はこうして間違いを悟った。
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