2-3.跪いた先の忠誠

 杉田の熱っぽい瞳に見つめられて胸が高鳴った。普段の言動から余裕のない荒っぽいキスをしそうだと思っていたのに、実際の口づけは擽ったいほど優しい。


「梨乃さん、嫌なら全力で抵抗してね」


 興奮で息が荒い。頬もほんのりと上気している。触れる手に不自然な力が入り、己の理性と戦っている。そんな杉田の全部が梨乃を求めているようで、それがたまらなく嬉しい。

 いつもより魅力的に見えるその左頬の傷に、梨乃はゆったりと唇を這わせた。


「……っ、それは反則っ……優しくしたかったのに……」


 優しくできなかったらごめんね、と杉田は困ったように笑って、梨乃の手の甲にそっと口づけを落とした。そこに感じた唇の柔らかさに、梨乃は心までをも震わせた。


 そこでけたたましい電子音に叩き起こされた梨乃は、一瞬どこまでが現実かを理解するのに苦労した。

 理解してしまえばなんてことはない。全てが夢の中の話で、現実の梨乃と杉田はあんな風にお互いを求め合う関係ではないのだ。


 夢か、と気づいて、同時になんて夢を見てしまったのだろうと複雑な感情を抱いた。

 え、夢ってどうして見るんだっけ?深層心理の願望が反映されてるってことはないよね?……ないない。ただ昨夜偶然会ったから強く印象に残っていただけだと、梨乃は自らに言い聞かせ、なんとか心を落ち着かせる。夢かぁ、と少しガッカリしている心には迷わず蓋をして見て見ぬ振りだ。




 彰宏は起床するなり「これ、クリーニング」と高級ブランドのシャツを梨乃に押しつけた。


「うん!今日買い物のついでに出しておくね」


 彰宏の方が早く出勤するのだから、そのついでにフロントに出してくれてもいいじゃんと思ったが、それを言うと何倍もの嫌味で返ってくることを梨乃はもう知っている。だから言わない。笑顔で「はい」と返事をすることが、夫婦円満の秘訣だ。


「それじゃあ今日の便に間に合わないだろ?」

「え?!今日の便って……あとちょっとしかないよ?」


 梨乃はリビングの壁にかけてある時計に視線をやった。クリーニングの集荷まであと5分やそこらしかないのに、無茶を言う。恐らく3日後の名古屋出張の時に着ていきたいのだろう。


「分かった……今から行ってくる……」

「あぁ、頼んだよ」


 彰宏のその言葉を聞き終えてから、梨乃はバタバタと部屋を後にした。無理だよ、違うシャツにしたら?だなんて、彰宏の冷たい視線を見れば到底言えやしないのだ。

 そもそも梨乃には「はい」か「うん」か「分かった」のどれかしか選択肢がないのだから、最早悩む時間さえ無駄である。




 高層階のデメリットの一つは外出までにかかる時間の長さだ。いくら複数のエレベーターが用意されているとはいえ、一階に下りるまでとにかく時間がかかった。


 梨乃がヤキモキしながら漸く一階に着くと、ちょうど出入り業者がフロントでクリーニングの受取を行っているところであった。

 本当は駆け出したかったし、なんなら「待って〜」と叫びたかったが、ここでそんなことできるはずがない。梨乃は自分のできるうる限りの早歩きでフロントを目指したが、生憎時間は待ってくれない。

 業者の男が「確かにお預かりしました」とフロントに常駐しているコンシェルジュに深々と頭を下げる。その光景を見て、きっとこの男こそが、昨日のあの下品な集まりの中で話題に上がった人物であろうと直感した。そして同時に、彼の纏う空気の清々しさと溌剌さに、梨乃はある人物を思い浮かべた。


「杉田さん……?」


 梨乃の蚊の鳴くような声が彼に届くはずはなかった。それなのにその男は引き寄せられるかのように振り返り、梨乃が立つそこをじっと見つめ、そして。


「梨乃さん?!」


 と、白く整った歯がハッキリと見えるほどの無邪気な笑顔を向けた。


「驚きました!まさかここで会うなんて。こちらにお住まいなんですね」


 思わず杉田の名前を呼んでしまった梨乃だったが、彼女は予想外のことに混乱していた。だってまさか、こんなところで会えるなんて、と口にこそ出さないが、瞬きが増えた目元がその戸惑いを雄弁に語っている。


「あ、もしかしてそれクリーニングですか?」


 そんな梨乃に気づいていないのか、驚きのリアクションを取り終えた杉田は、"それ"、と梨乃が持つシャツを指さした。


「あ、ああ、そうなんです。間に合わないかもって思ったんですけど……どうしても今日クリーニングに出したくて」

「なら今受付の処理しますよ。一緒に持って行きますね」


 ありがとうございます、と手渡せば、彼の指先が梨乃の手の甲に僅かに触れた。もしかして勘違いだったのかもしれない。それほどの不確かなもの。だけど火傷をしたように熱いそこは、夢の中で杉田が口づけてくれた場所と同じであった。

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