2-2.親しみの笑顔にひざまずく
こんな夜に一人なんて危ないですよ!と言う杉田の送りの申し出を、梨乃は固辞した。なんとなくだが、あのマンションに住んでいるということを杉田に知られたくなかったのだ。見栄えばかりが良いあの建物が、今は恥ずかしくてしょうがなかった。
「あ、家知られるの怖いっすよね。じゃあ、途中まで、せめてあの坂道まで」
しかし杉田もなかなか頑固なようで、そこだけは譲る気配がない。普通ならしつこい男だと嫌気がさしそうなものなのに、杉田だからだろうか、ちっとも嫌な気分にならないのだから、それはそれで困ってしまう。
「じゃあ、あの坂道まで」
「うん!あ、もしかして迷惑でした?」
話がまとまったあとに気にすることではないだろうと、杉田の言葉を聞いた梨乃は声を出して笑った。
「なんでそんな笑ってんの?俺変なこと言いました?」
「いえ、全然。うふふ、ごめんなさい。あは、やだ、止まんないっ、あはは」
「ちょっ、あはは、移るから、あは、やべぇ、止まんないっすね、はは」
お互いがお互いの笑い声につられる。夜道で笑い合ってる2人なんて怖いだけじゃん、と思うのに、またそれが面白くて、梨乃の目には薄らと涙までが浮かんできた。
「梨乃さん、もうやめて、俺腹が、ははっ、」
「あはは、杉田さんが笑うからっ、お腹いたい、あはははっ」
「ふはっ、ちょっと俺向こう向くからね、落ち着かせる」
そう言った杉田は立ち止まり、梨乃に背中を向けた。梨乃も目を瞑り心を落ち着かせるように数を数えた。1から順に、10まで。そうすると不思議と笑いが落ち着いてくるのだ。
ようやく笑いが収まって顔を見合わせた2人がニッコリと微笑み合えば、杉田がぽつりと「こんな笑ったの久しぶりかも」とこぼす。
「わたしもです」
「ふふ。俺さ、今日嫌なことあったんだけど、これでチャラどころか、すげぇいい一日になりました」
「……わたしもです」
梨乃が頷けば、杉田は「そっか……それなら良かったです」と前を向いた。
そこから2人は他愛ない話をした。パーソナルな話ではない。「夏の夜って好きなんですよね」とか「明日も暑そうですね」とかそんなことだ。たまに訪れる沈黙も苦痛ではなくて、それどころか火照った頬を冷ますのにちょうど良かった。
気がつけば着いていた坂道で立ち止まり、杉田は「それじゃあ、気をつけて」と念押しするように梨乃をしっかりと見つめた。
街灯だけでなく、道路を挟んだ向こう側のコンビニの明かりや片側一車線の道路を走る車のライトが2人を照らす。空はもう真っ暗なのに、杉田の細かい表情までもがよく見えた。
キリッとした上向きの眉と切長の瞳が美しいと、梨乃は心のままに思った。こんな風に純粋な心配を向けてもらったのはいつぶりだろうか。もう子供じゃないのよ、迷子になんてならないわと戯ければ、杉田は「それの心配をしてるんじゃないのよ〜」とでも言って、また笑ってくれるだろか。
こんな気持ちこそ、学生の頃恋愛漫画を読んで心ときめかせたアレと同じだと、梨乃はふっと瞼を伏せ、気持ちを切り替えた。もう有り得ない妄想に浸って許される立場ではない。
「はい。わざわざありがとうございました」
「いえ。俺がしたかっただけなので」
「……それじゃあ……おやすみなさい」
「……はい、おやすみなさい」
何かを孕んだような含みのある沈黙が梨乃の心を無遠慮に撫でた。が、これも気づかぬフリだ。そうしなければならない。
ペコリと頭を下げ合い、梨乃は電動自転車に跨る。ペダルに足を乗せ、漕ぎ出そうとしたその時、杉田は大きく「あの!」と声を出した。
「……?はい」
冷静なフリで返事をしながら、梨乃の心臓はドキドキと大きな音を立てている。それは普段意識しない心臓の位置をハッキリと感じてしまうほどだ。
「……いや、気をつけて。それじゃあ、また」
杉田はもう一度頭を下げて「行ってくださいね」と梨乃を促した。梨乃ももう一度頭を下げてペダルを踏み締める。グンっと背中が押されるような漕ぎ出しは、正直今もまだ慣れない。
坂道を登り切った後振り返った先で、杉田がまだ見送ってくれていることに気づいた。
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