1-3.はじまらないふたり
どこで返せばいいですか?と話す杉田の声は、電話越しでも緊張していることが分かった。
「スーパーって、普段どこ使ってますか?」
「え?あ、あの坂道真っ直ぐ行ったところ分かります?」
「最近できたところですね!近々行きますか?」
「あ、じゃあ今日行きますよ、そこに」
杉田のその言い方から、本来は行く予定でなかったことが伝わってくる。
「今日じゃなくてもいいですよ?」
と彼を気遣った梨乃の声に「いや!できるだけ早く返したいので!こういうのは!」と、杉田の声が被さる。
たったそれだけのやり取りで杉田の実直さが漏れ伝わったのか、梨乃はクスリと笑う。正確には初めて会ったあの日、たった一度、それも数分、長くても十数分の関わりで、杉田のことを裏も表もない温かな人だと確信していた。
時間はいつでもいいんで、と言ってくれた杉田に甘え、梨乃は待ち合わせを15時でお願いした。今日は彰宏が自宅に帰ってくる曜日なので、どのみち晩ご飯の食材を買いに行かなければならないのだ。
夏の15時の日差しは容赦なく肌を刺す。いつもは黒いアームカバーで日焼け予防をしている梨乃だが、なぜだか今日はする気になれなかった。
元々色白だったが、彰宏との結婚によりインドアに拍車がかかり、梨乃の肌は驚くほど白い。本人も光老化を気にして紫外線には人一倍気をつけているので、その白さは努力の結晶と呼んでも差し支えないだろう。
そんな梨乃が直射日光が降り注ぐ炎天下の中、必需品のアームカバーをしないなんて。別に杉田へ特別な感情を抱いたわけではない。ただなんとなく、アームカバーをした姿を杉田に見られるのは恥ずかしいなと、そう感じただけだ。まぁ、初めて会った日に見られているので今更な話なのだが、とにかく梨乃はその白い肌を晒しながら電動自転車を漕いだ。
15時少し前に着いたスーパーの出入り口で杉田は既に梨乃を待っていた。梨乃がいつ来てもすぐに分かるように、2つある駐車場の出入り口を一定の間隔で交互に見ている。そんな杉田に気づいた梨乃が自然と目尻を下げた頃、彼女を見つけた杉田が大きく手を振った。
嬉しさを体全部で表したような身振り手振りの大きさに梨乃は面食らう。それでも恥ずかしいというよりはむず痒い感覚で、初めてできた彼氏と待ち合わせをした学生の、あの日の気持ちを思い出した。
「お待たせしました。すみません」
「いや、俺もさっき来たとこなんで」
と言う杉田の額にはポツポツと汗の玉が浮き出ている。猛暑日の15時なんて、1、2分やそこらで汗は噴き出てくるので、杉田の言ったことは本当かもしれない。だけど杉田はそう言った優しい嘘をさらりと口にできてしまう男だろうと、梨乃は思う。
先日は玉ねぎコロコロや顎下強打でワタワタとしていたので、目立つ左頬の傷と少年のような笑顔が強く印象に残ったが、改めて見る杉田はとても上品で端正な顔立ちをしていた。それは学生時代に相当モテただろうなと直感的に思うほどであった。
「わざわざ時間取らしちゃってすみません」
「いえいえ、買い物のついでなので」
なら良かったと、杉田は改めて「ありがとうございました。本当に助かりました」と頭を下げ、梨乃へエコバッグを返した。
梨乃は受け取ったエコバッグを鞄にしまい、杉田を見つめた。これで終わり。「お役に立てて良かったです」と、梨乃が笑えば最後だ。
言うべき言葉は分かっているのに、なぜだかそれが思うように出てこない。それどころか頭の中で次の話題を探そうとしている。梨乃はそんな自分自身が信じられなかった。
「あ、の、梨乃さんは……いつもここを利用してるんですか?」
己の思考回路に戸惑っていた梨乃を杉田の声が正常な思考へと引き戻す。
「あ、いえ、いつもは駅前のスーパーで」
「あぁ!あの高級スーパー!あそこ色んな食材がありそうですね」
あはは、と漏れる杉田の気まずそうな笑い声が、彼も必死で話題を探そうとしていることを梨乃に知らしめた。
彼もさよならの仕方が分からなくて困ってる?違う。そうじゃなくて、何か言いたげなわたしを気遣っているんだ。それに気づいた梨乃はハッと我に返った。
「あの、それでは失礼します」
「あ、はい……!本当にありがとうございました」
これで終わり。狭い街だ、これからすれ違うことはあるかもしれないが、それだけ。梨乃と杉田の人生はここで一瞬交わっただけのはずだった。
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