1-2.こんにちはではじまり
黒で統一されたインテリアは梨乃の夫、
そんな彰宏が彰宏だけの為に作ったような家で、梨乃は今日もせっせと料理を作り彼の帰りを待っている。
大手予備校の講師をしている彰宏の帰りはいつもだいたい22時頃。週の3日は東京で、残りの3日は出張で彼の地元の名古屋で授業を行い、残り1日だけはフリーという行ったり来たりの生活を送っている。
たった一日しかないフリーの日も必ず休めるわけではなく、高校の教員へ授業の指導を行ったり、講義の動画を撮影したり、参考書の監修をしたり、授業の準備をしたりと彰宏はいつも仕事に追われている。とにかく忙しい男なのだ。
梨乃はそんな彼に何不自由のない暮らしを送らせてもらっている。週に3日は使う電動自転車も、運転免許を持っていない梨乃の為に彰宏が買ってくれたものだ。
結婚が決まったときに「仕事をする必要はない」と言われたので今の梨乃は無収入だが、欲しい物は彰宏の許可が出れば彼が買ってくれる。彼の趣味に合わない物や、彼が不必要だと感じる物は却下されるが、それは梨乃の独身時代の貯金から買えばいいだけの話だし、事実彼女はそうしている。
梨乃と彰宏は出身地が同じでそこで出会った。彰宏の週に3日ある名古屋出張のときだ。
結婚にあたり梨乃は東京に引っ越した。それはもちろん彰宏が東京に住んでいたからで、今まで地元から出たことのなかった梨乃は結婚から3年経った今もまだ東京に馴染めていない。知り合いすらいないのだから友達なんて夢のまた夢。
週の半分は一人暮らしみたいなものだ。部屋は必要以上に汚れないし、乱れない。そんな生活感のない冷たい部屋で、梨乃は彰宏の帰りを待っている。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「腹減ったからメシ食べるわ」
「できてるよ!ビーフシチュー作ったの」
「そう」
短く返事をした彰宏は部屋着に着替え食卓についた。2人暮らしにしては大きなダイニングテーブルは、将来子供ができたときの為にと彰宏が選んだものだ。が、生憎今のところその予定はなく、たまにある彰宏の大学時代の友人たちとの集まりで、この大きなダイニングテーブルが有効活用されているのが現状である。
「そうだ、来週の日曜にまたアイツら呼ぶから」
それは梨乃の「美味しい?」という質問に頷いた彰宏から発せられた言葉だった。
「あ、そうなんだ。じゃあ、またおつまみ用意するね」
「うん、頼むな。あと、分かってると思うけど、」
「あぁ、うん、大丈夫」
彰宏が言う"アイツら"とは、先述した彼の大学時代の友人たちだ。彼らがこの家に訪れるときの約束ごとは二つあった。
一つはおつまみの下拵えを梨乃がすること。そしてもう一つは梨乃と彰宏の出会い方を隠し通すこと。
彰宏は存外プライドの高い男である。しかしそれを人に悟られたくないと思っている男でもあった。
だからその性質を整った外面で覆い隠し、友人や職場では"気さくな良い人"というイメージを確立している。そのイメージを守る為、彰宏は友人たちの前では甲斐甲斐しく動き回り、梨乃が下拵えしたおつまみをさも自分が作ったかのように振る舞うのだ。梨乃に「お前は座って酒でも飲んでな」という気遣いまでご丁寧に添えて。
それだけならまだ百歩譲って許せるが、彼は梨乃のこのをさり気なく"何もできない不器用な女"だとイメージづけることも忘れない。
彰宏の家族や友人、そして梨乃の家族や友人も2人の出会いがマッチングアプリだということを知らない。その出会い方が市民権を得ている今、梨乃は正直に話すつもりだったが、彰宏はそれに待ったをかけた。
別にそれはいいのだ。その出会い方に偏見を持つ人がいるという現実も知っているし、素直に話さなければいけない決まりもない。だから梨乃もそれに異存はなかった。
彰宏が用意したニセの出会いのシナリオは、まず梨乃の失敗から始まる。梨乃が泥酔して財布を落とす、それを彰宏が拾い届け、梨乃を介抱したことが2人の出会いなのだ。
それを聞いた周りの人たちはどう思っただろう。微笑ましく思ってくれただろうか。友人たちは「ドラマみたい〜」と「彰宏さんって優しいわね」と、出会いや彼のことを手放しで褒めてくれたが、彰宏の両親や梨乃の両親はどうだったろう。今となってはもうどうでもいい話だ。
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