痛みまでも愛してる
未唯子
1-1.頬xxx
初めての経験はいつだって緊張とときめきをつれてくる。
今乗ってる電動付き自転車だって漕ぎ始めは上手く乗れるかなってドキドキしたけど、いざ乗ってみればこんなに楽なの!?って感動したもん。と、
これで買い物に行くからと大きな物に付け替えた後ろカゴには、今晩の献立の食材を詰め込んだエコバッグが入っている。
だけど慣れてしまえば少なからず欠点も目につくし、不満だって出てくる。電動付き自転車といえど、坂道はやっぱりしんどい。梨乃は目の前に広がる坂道を前に、ペダルに乗せた足へ力を込めた。
「うおっ、マジかよ!」
「へっ、あっ、え〜?」
坂道の真ん中辺りで焦った男の声がしたなと思ったら、次の瞬間には玉ねぎがコロコロと坂道を転がり出したのだ。
その玉ねぎたちは徐々にスピードを上げて順番に梨乃へと向かってくる。急いで道脇に自転車を停めた梨乃は、転がる玉ねぎを一つ一つ丁寧に捕獲していった。
「すみません!ほんとすみません!」
大きな玉ねぎ3つと、小さな玉ねぎが6つ。こんなに買い込んで何を何人前作るのだろうと疑問に思った梨乃に影が差し、頭上からは随分と慌てた男の声がする。
「いえ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です大丈夫です!」
助かりました、と男がしゃがんだのと、玉ねぎを手渡そうとした梨乃が立ち上がろうとしたタイミングは偶然にも同時であった。
ゴチン、と音がしたような気もするし、しなかった気もする。が、とりあえず男の顎下に梨乃の頭がぶつかったことは確かなのだ。
「きゃあ、ごめんなさいごめんなさい。大丈夫ですか?」
今度は梨乃が必死に謝ることになった。男はしゃがみ込んで顎下をさすりながら、堪えきれないといった様子で「あはは」とおかしそうに笑った。それにつられた梨乃も「あはは」と無邪気に笑う。
「ほんと助かりました。ありがとうございました」
まだ笑みを浮かべたままの男は改めて礼を述べ、梨乃の手から玉ねぎを受け取る。そして梨乃の足元に置かれている残りの玉ねぎを取ろうとし、暫しの沈黙の後「あの……他の玉ねぎ、俺の手に乗せてもらってもいいっすか?」と恥ずかしそうにはにかんだ。
その屈託のない笑顔に梨乃は思わずドキリとした。夏のような男だと思った。虫取り網を持ってこんがりと日焼けした少年がそのまま大きくなったようなその男の左頬には、縦に走る目立つ傷跡があって、それすらも魅力的だと思った。
「……?あ、あぁ、これっすか?」
子供の頃に枝でグサッと、と、梨乃の視線に気づいた男は玉ねぎを片手に持ち替え、空いた指で頬の傷をさする。
「あっ、ごめんなさい……。失礼なことを、」
「いやいや、いいっすよ。もうこいつとも長い付き合いなんで」
はは、と男は左頬を掻いた。梨乃にそういった気は全くなくとも、不躾な視線を送ってしまったことを恥じた。しかしこれ以上謝罪を重ねることも失礼になりそうで、梨乃は曖昧な笑みを浮かべる。
「あの、袋持ってないんですか?」
「袋?あぁ、袋が破れちゃったんですよ」
だから玉ねぎが坂を転がってきたらしい。男は今や必需品のエコバッグを持っていないようで、唯一のビニール袋が破れてしまった今、両手に抱えてこの大量の玉ねぎを持って帰るしかないのだ。
「わたし、予備のエコバッグあるので、よければそれを使ってください」
「そんな!悪いですよ!大丈夫です!家すぐそこなんで」
「……それならわたしの自転車のカゴに入れますか?家まで一緒に行きますよ?」
「いや……それは、……じゃあ、エコバッグ借りてもいいですか?」
それは梨乃の純粋な善意で、玉ねぎを転がしたのがこの男でなくても拾ったし、もちろんエコバッグの申し出もしただろう。
逆に若いーーといっても同年代だとは思うがーー男だからこそ少し躊躇したほどなのだ。アキくんが知ったら怒るだろうなと、確信めいたものを抱きながら、梨乃は予備のエコバッグをその男に手渡した。
「本当に助かります!あ、これって、」
「あ、あぁ、これ、わたしが好きで……あは、恥ずかしいですよね、えっと、待ってくださいね」
差し出したエコバッグに固まった男を見た梨乃は自身の失態に気づく。27、8歳頃の男にうさぎのキャラクターは酷くミスマッチだ。
今自分が使用している無地のシンプルな物と交換すればいいのだと、梨乃は咄嗟に立ち上がった。そんな梨乃を「待って!」と男の声が制止する。
「違うんです。俺、このキャラクター好きで……これ、この前限定で出たやつですよね?こんな貴重なもの、借りてもいいのかなって……」
予想していなかった言葉に梨乃は目を白黒させた後、嬉しさに思わず破顔した。梨乃の夫である"アキくん"は「いい歳してキャラクター物なんか持つなよ」と良い顔をしない。だからこそ予備としてこっそり持っていたのだ。それなのにまさかアキくんと同年代ほどの男性が「俺も好きで」と肯定してくれるなんて、夢にも思っていなかった。
「いいんです!わたしは使う機会がないし……それに、保存用も買ったので」
「わ、マジで!?じゃあ、遠慮なくお借りします」
そう言った男は深々と頭を下げて、男には些か不似合いなエコバッグに玉ねぎを詰めていく。梨乃もそれを手伝い、最後の一つがエコバッグに入ると、男はもう一度「ありがとうございました」と頭を下げた。
「あ、と、連絡先……教えてもらってもいいですか?」
「え?連絡先……ですか?」
「はい……、あっ、と、そういう意味じゃなくて……エコバッグをお返しする時に必要なので」
梨乃は変に勘繰ってしまったことを恥じた。いくら保存用があるとは言え、たしかに「差し上げますのでお気遣いなく」と言える物ではない。
スマホを手にした男に「ゼロ、ハチ、ゼロ」と自身の電話番号を伝える声が僅かに震える。これほど緊張したのはいつ振りだろうか。これは必要なことで、やましい気持ちなど一ミリもないのに。
「俺、
「あ、わたしは
「"ふくさきりの"さん」
男の形の良い薄い唇が、名前を噛み締めるように動いた。
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