第8話 砂辺:教室

 坂木さんが兎口さんと話をしている。多分、昨日打ち合わせたことを確認しているのだろう。

 今日は鹿島は来ていたけど、熊野は休んでいた。先生は体調不良だと言ってた。


 坂木さんが話しているのをなんとなく見ていた。彼女はしきりに腕を掻いている。

 ん? あれなんか変なことになってないか?


「坂木さん、腕、どうしたの?」


 僕は思わず声をかけていた。袖から覗く彼女の二の腕の裏側が、紫色にえぐれていたのだ。


「え? なに?」


 腕をひねって覗き込もうとするけど、本人では見づらい位置だ。


「なにこれ……」

「痛くないの?」

「痒いけど、見た目ほど痛くはない、けど」


 大きさは一円玉くらいかな。まるでかじられたような傷痕。しかも紫色に変色しているのだ。

 その時、給食係が声をかけてきた。


「順番に取りに来てください」


 みんなが前に給食を取りに行き始める。

 とりあえず自分らも給食を取ってくる。

 ガラガラッと急に教室の後ろの扉が開いた。

 そこに立っていたのは、熊野だ。


「おいナオ、また給食だけ食いに来たのかよ」


 鹿島が茶化すように言う。熊野は「得意教科は給食」と自分でいうほど給食大好きなのだ。前にも、風邪をひいているのに給食だけ食べに来て、そのまま帰ったことがあるのだ。

 熊野は青白い顔で、歩き方もフラフラしている。今にも倒れそうだ。


「おい、大丈夫か?」


 さすがの鹿島も心配げに声をかける。熊野は手を上げて大丈夫と示すが、正直大丈夫そうには見えない。

 熊野が給食を取りに前の方へ歩く。その途中、教室の真ん中で立ち止まった。目もうつろで、フラフラと体が揺れている。


 不意に彼の喉からグルルと音がもれる。

 すぐ隣の席の人が、慌てて席を立って離れていく。その様子を見た他の人たちも教室の端に避難していく。女子の一人が「バケツ取って」と言いながら掃除用具入れからバケツを取り出そうとしている。

 けど、どうやら間に合わなそうだ。熊野は前かがみになり、口を開け始めた。


 ごぼぼぼ、という音をたてて、熊野の口から三つほどの塊が吐き出された。

 周りで女子の悲鳴と男子の罵声が重なり合う。

 バケツを持った女子が少しでも被害を抑えようと、勇敢にも熊野に近づいていく。そして、さっき吐き出されたものを見て、一瞬動きが止まった。


「キャーーーーッ!」


 それはただの悲鳴じゃなかった。多分、絶叫ってやつなんだと思う。全身で絞り出すような声。

 彼女が見た物が、もそりと動いた。


 それは、ネズミだった。


 茶色と黒のまだら模様の、手の平に乗るくらいの小さなネズミ。

 なんでネズミなんだ?

 そんな疑問を考えるよりも先に、熊野が大きく体を震わせた。


 ごぼ、ごぼぼぼっ。

 次の瞬間、熊野の口から、信じられないほど大量のネズミが溢れ出した。

 それらが教室中を走り回る。


 教室は大パニックにおちいった。

 チチッチチッと鳴きながら机、椅子、そして人の足の間を駆け回るネズミ。

 僕もなんとか少しでも離れようと、椅子の上に立って避難していた。

 20や30ではきかないほど大量のネズミが、教室を走り回り、そのまま扉や換気のために開けていた窓から外へ出ていく。


 あれだけ居たネズミが、気がついたら一匹残らず消えていた。時間にすれば、ほんの二十秒、いや十秒くらいだったのかもしれない。たったそれだけの時間で、教室はぐちゃぐちゃに荒れ果てていた。いくつもの机や椅子が倒れ、給食も床にぶちまけられている。泣き出す女子や、男子でもほぼ放心状態になっている人が何人もいる。


「どうした!? 何があった?」


 たまたま教室を出ていた先生が戻って来て、教室の惨状を見て絶句する。それでもすぐに気を取り直し、ただ一人教室の真ん中で倒れている熊野を見つけ、近づいていった。


「おい、熊野か。どうした、大丈夫か?」


 そう言って、うつ伏せに倒れた熊野をひっくり返した。


「うわあああ!」


 先生が腰を抜かして尻餅をつく。

 それもそのはずだ。熊野の顔はネズミに齧られたのか、口の周りがキズだらけで紫色に変色し、見るも無惨なものだったからだ。

 だけど、僕はそれよりも気になっている事があった。


 逃げていったネズミたち。そのうちの何匹かの背中の模様が、人の顔のように見えたんだ。

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