飛び降りた少女は幽霊に諭される

「え? 幽霊……?」



「貴様。我が見えるのか。それより、触れたのか?」



「え? ええ。……見えるよ」




 掴んだ本人が一番驚いたような声をしたので、反射的に私も間の抜けた声を出してしまった。私は死にかけているのに、崖の外で幽霊に体を支えられながら、宙づりになっているのに。孤独から逃れようとして、そこで待ち構えていた更なるなる孤独に苛まれていたのに、頭に冷水をかけられたかのように急に冷静になった。




「大人しくしていろ。すぐに引き上げる」




 そう言うと幽霊は片腕で体重50キロ近い私の体を簡単に引き上げた。重力に逆らって漆黒の空に舞った私の体は勢いそのまま固い地面に衝突する。芝の青臭い匂いが鼻腔を満たし、鈍い痛みが全身を駆け巡る。


「痛たた……」


「よかったな。落ちていたら痛いじゃ済まなかったぞ」



 私は強打した右肩を庇いながら、立ち上がり、幽霊の姿を今一度確認する。



 所々穴が開いた引き裂かれたかのような跡が残るボロボロの軍服を着ていた。帽子は被っておらず、短く切り揃えられた黒髪。鋭く細い眉毛と左頬に生々しい切り傷。それを帳消しにするくらい整った顔と左腰に付けた日本刀。しかし、それを振るう筈の右手は袖口から欠損し、凛々しい筈の瞳のハイライトが消えていた。背は160センチの私よりも10センチくらい高そうだ。




 その格好から察するに、太平洋戦争で亡くなった霊だろう。そのような格好の霊は今までよく見てきた。



 彼岸に渡らず此岸に留まる霊は生前に未練を抱え、言葉を忘れる程悠久の時を孤独に過ごしている。あるいはその未練を叶える為に、手段を選ばない悪霊になり果てた。どちらにしても、現世に踏みとどまった所で、肉がない彼らには生前の願いを叶えられない。


 だが、目の前の幽霊はそのどちらにも当てはまらない稀な存在だ。生前の自我を保ちながらも狂気に呑まれていない。しかも、半ば実態化できる程強い力を持った幽霊だ。私のように霊感のある人間に危害を加えられる幽霊は何度か見てきたが、私に触れた幽霊は初めて会ったし、危害を加えようともしない幽霊も初めてだ。




「不思議なものだな。我を識別できる人すら、ここ最近見なかったのだが。貴様は我が見えるどころか、触れられるとはな。貴様。何者だ?」




 軍服の霊は声のトーンと表情を変えずに、私に問いかけてきた。それは自殺を図った私を糾弾しているようにも、皆と公平に接する理想の教師が私個人を気にかけているようにも聞こえた。


 だが、死んでいる声なのかとても無機質で、叔父が私に接するような雰囲気によく似ている。私をいない者として扱うような無機質で機械的な声に怯える。



 故に、私は忘れていた孤独への逃避行を始めた。




「……何で私を助けたんですか?」


「死ぬ間際まぎわまで独りで逝くつもりだったのか? その瞬間が最も孤独だっただろうに。ひとりぼっちは寂しいぞ。それが分からぬ貴様ではあるまい」


「……幽霊なんかに何が分かるんですか?」


「我は蒸すような異国の密林で独り死を迎えた。以降ここで貴様のような自殺者を救おうと尽力してきた。しかし、貴様を助けるまで誰一人救えなかった。その日々は孤独であった」


「だから、死に際は孤独だったと?」


「そうだ。貴様も恐怖しただろう。死そのもの・・・・の恐怖ではなく、死後の世界の孤独。常闇の世界にひとりぼっちで残さられる恐怖を刹那で悟っただろう」


「……!」


 その瞬間、まるで心臓を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。あろうことか、目の前の軍服の幽霊は私の心の内を悟ったかのように、私の図星を突いた。そう語る幽霊の表情が少しだけ昔を懐かしむかのように緩んだ。




 私の孤独。自分の無価値さに恐怖して生じた孤独感。ひとりぼっちが怖くて寂しいから、逃げる為に死のうとして、わざわざここに来た。


 そして、飛び降りてからそれが更なる孤独の入り口だと知り、死にたくないと身勝手に思ってしまった。だが、目の前の幽霊は自殺しようとしたことよりも、独りで死のうとしたことを糾弾しているようだった。




 その瞬間、自然と涙が出てきてしまった。まるで、初めて人に優しくされたような。洞窟の中で暮らしていた人が、初めて外の太陽の光を浴びたような衝撃だった。



「私は別に死にたかったわけじゃない。ひとりぼっちが怖かったから、死んで逃げたかったの。死ねば、こんなに寂しくはならないと思ったから! 本当なら、私だって生きたいよ! でも……! 生きているとずっと孤独が付き纏ってくるの……。何をしても独り。どうやっても独り。そんな孤独は私に価値がないと言っているの! その脅迫観念が怖い。孤独な私は価値がない……」





 止まらない感情を涙に乗せて、半透明の幽霊に吐き出した。そう、私は別に死にたい訳じゃない。私自身ではどうしようもできない孤独から逃げたかっただけ。その最善の選択肢として、自殺を選んだに過ぎない。孤独から解放されて生きれたならば、どれ程幸せなのだろう。それを私は心の底から渇望していた。


 だが、手に入らないと知ってしまった以上、残るのは孤独と「自分は無価値」という強迫概念だけだ。




「要は貴様を苦しめる孤独を取り払えばいいのだな」


「ただの幽霊に何が出来るのよ? 私の周りには誰もいない。友達も家族もいない。唯一の保護者の叔父は私を世話するだけで、何もしてくれない」


「我が貴様と共にいこう」



 私の身勝手な独断と偏見に対して、幽霊は迷わずそう言った。その言葉の意味が理解できず、思わず涙が止まってしまった。




「え? 何言っているの?」


「貴様は我が見えるばかりか、我に触れられるのだろう。我は今までそなたのような自殺者を止めようと、長きにわたりこの地で尽力してきた。しかし、霊体故誰も救えなかった。しかし、何の縁かそなただけは救うことが出来た。これは偶然ではなかろう」


「……」



 軍服の幽霊は芝生の固い地面に軽そうな体を下した。その横顔はやっぱり凛々しい。もし生きているのならば、アイドルとして芸能界でも活動できたであろう。だが、彼は身勝手な人々によって引き起こされた戦争に巻き込まれて亡くなった。そして、視線を漆黒の海に向けながら、その過去をゆっくりとした口調で語りだした。

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