恋愛マイスター

円同収束

恋は盲目

 夏休みもあと少し。

 日照りの中、わたしは胸が弾む思いで道を走る。

 息が切れることなんてかまうもんか。この胸のドキドキが、疲れのせいだけではない事をわたしは知っている。


 公園が見えてきた。胸が高鳴る。あの大きな木の下に、早く行きたい。

 信号が赤になった。足を止める。息が落ち着いてゆく。でも、ドキドキは大きくなってゆく。待ちきれない。


 青に変わるのと、わたしが足を踏み出すの、どっちが早かったのかわからない。公園に近づいてきて、ひるがえるワンピースの裾が気になって、少しだけ歩みを遅くした。


 今日は会えるのかな。会えるといいな。

 わたしは入り口からあの木を見た。はやる気持ちは、その、先を求めていた。


「あっ..................」


 誰もいない。公園の中を見回しても、そこには誰もいなかった。

 お気に入りのバッグをぎゅっと抱きしめる。中には今朝焼いたばかりのクッキーが入っている。じわり、と。やるせない気持ちが広がった。


 そのときだった。


「ごめんね。遅くなっちゃった」


 わたしの後ろに、コンビニの袋を持ったお兄さんが立っていた。

 待ち合わせ時間を決めていたわけでもないのに、彼はそう言って片目を閉じて微笑みかける。

 太陽のような笑顔だった。

 それまでの悲しみが嘘のように消えて、ついわたしも笑顔になる。


「ううん。ハルくんと同じで、今来たばっかり、です」

「暑いよね。アイス買ってきたから向こうで食べようか?」

「わあ! ありがとう!」

 ハルくんが指を刺した。大きな木の下の、日陰にあるベンチ。わたしたちの場所だ。


 ハルくんは、わたしの二つ年上のお兄さんだ。今年から高校生になったらしい。

 出会ったのは夏休みの始まりの頃だった。

 わたしはそのとき失恋したばかりで、あのベンチで一人泣きじゃくっていた。そのとき、心配して話しかけてくれたのがハルくんだった。

 でも、ハルくんは普通の人ではなかったのだ。


「さて、ここで復習です。今、僕たちがアイスを分け合うことで、どんな効果が期待できるでしょう?」


 ベンチに着いてすぐに、ハルくんは二人で分けられるソーダバーを見せてそう言った。

 わたしは、息を整えて、答える。


「はい! 同じ食べ物を分けあって一緒に食べると、その二人はより親しみを感じられるようになります!」


 わたしが答えるとハルくんは満足げに頷いた。


「よろしい!」


 その言葉に、わたしは嬉しくなる。


 ハルくんはただの優しいお兄さんではない。––––ハルくんは恋愛マイスターなのだ!

 なんでも、アドバイスを行った友達が何人も告白に成功したらしい。おかしな自称なのに、恋愛マイスターを名乗るハルくんは、不思議と自信に満ちあふれている。


 あの日から毎日のように、わたしはハルくんに恋愛のテクニックについて教わるという、奇妙な関係を続けているのだ。


「ごめんねアオイちゃん。これ以外売り切れていたんだ......」


 ソーダーバーを半分に割って、ハルくんは申し訳なさそうにうなだれた。わたしにとってはむしろ嬉しいことだけど、そんなそぶりを見せるわけにはいかない。


「気にしないで! でも......わたしたちが親密になっちゃっていいんですか......?」


 それを聞いたハルくんは、片目を閉じて微笑んだ。


「大丈夫。こういうものは仕掛けを知っている人にはあまり効かないんだ」


 そして少し遠い目をして続ける。


「学校の先生も生徒と同じ給食を食べるよね? 僕らのはそれと同じだよ。信頼関係と......愛情は違うものだから。いつも決め手は、好きって気持ちなんだ。テクニックは、それを届ける手助けに過ぎない......これも本番で出るよ!」

「はっ......はい!」


「夏休みが終わったら、きっとアオイちゃんは見違えてる。彼もきっと、君を振ったことを後悔するよ!」

「はいっ!」––––きゅっと胸が痛んだ。

 わたしは、告白のリベンジのためにハルくんに師事した。ことになっている。


 でも、わたしは今。ハルくんに、恋してる。



 <>



「今日は仕草の続きをしようか」


 木陰で休んで汗も引いた頃、わたしたちの時間が始まった。


「前にも軽く触れたよね。同じ文化圏にいる人は共通した仕草を持っているんだ。僕たちはそれを使ってコミュニケーションをしている。だから、同じ仕草の人はよくわからない人よりも近くにあると............」


 わたしはぼうっとハルくんの説明を聞いていた。言ってることがわからないわけじゃないけれど、それよりもこの瞬間がなにより好きなのだ。

 夏休みが終わるとこの時間も終わってしまう。そう思うと、なんだかとても寂しくなってしまう。


「––––つまり、仕草をまねるということは相手と親しくなりながら、相手の気持ちを理解することにつながるんだ」


 ハルくんはそう言うと、わざとらしく伸びをしてベンチに座る。そして、足を組んで手を頭の後ろに持っていって空を眺め出した。


 まるで別人のような普段とは違った仕草に、不思議と目が吸い込まれる。ハルくんは私と目を合わせると、いつものように片目を閉じて微笑んだ。


 わたしはハッとした。ハルくんは仕草を真似してみろと言っているんだ。そう理解したわたしは、わざとらしく伸びをすると、ハルくんの隣に座って同じ姿勢をした。


 二人で空を見ると、いつもよりも自由になったような気がする。空が、どこまでも青かった。

 ここには、わたしたちだけがいる。


 何も言わずともわたしが仕草を真似したので、ハルくんは満足げに微笑んだ。


「そうそう。その調子! アオイちゃんは飲み込みが早くて嬉しいよ」


 ハルくんに褒めてもらうと、わたしも嬉しくなる。この時間が、終わらなければいいのにな......。

 でも、わたしの気持ちがハルくんに気づかれてしまったら、夏休みが終わるよりも早くこの時間は終わってしまう。


 わたしは、片目を閉じて微笑んでみた。わたしだけが知っている。ハルくんの癖。

 ハルくんは少し驚いたような顔をしたあと、恥ずかしそうに空を見た。



 <>



「そういえば、そのバッグ似合ってるね」


 ドキリとした。まるで使命を思い出したような心地だった。


「ありがとう! このバッグはお父さんが作ってくれたお気に入りなの」


 わたしは緊張しているのに気づかれないよう返事をする。

 いつもは持ち歩かない、お気に入りのバッグ。今日のワンピースの色も、それに合わせて決めた。


「えっ!? 手作りなの!? すごいなあ......今日はこのあとどこかに行くの?」


 ハルくんはわたしがおしゃれをしていることから、用事があると思ったようだ。

 バッグの中にははじめて焼いたクッキーが入っている。ハルくんに食べてもらいたい。そう思っていたのに、そこから先の言葉が出てこなかった。


 味見はしてきた。初めてにしてはうまくできたと思う。でも、ハルくんの口に合うかわからない。それに、わたしの焼いてきたクッキーをハルくんに食べてもらうという理由が見当たらない。好きだとは、言えなかった。


「用事があるなら今日は早めに切り上げようか。今日は抜き打ちテストもしたし仕草の練習も十分できたよね」


 そうだ。口実ならあった。

 わたしはベンチから立ち居上がろうとしたハルくんを呼び止める。


「ハルくん!」

「どうしたの?」

「はじめてクッキーを焼いてきたから......! 恋愛マイスターのハルくんに、味見をして欲しいです!」


 恋愛マイスター呼ばれると、ハルくんの目の色が変わる。とても真剣な眼差しだ。


「いいとも。恋愛マイスターにまかせたまえ! まずは見せてくれるかな」


 わたしはバッグの中から、ラッピングされたクッキーを取り出した。ハートマークのアイシングをした、丸いクッキーだ。

 ハルくんはそれを観察するようにじっと見て、言葉をこぼした。


「......すごいなアオイちゃんは......! 見た目はとても初心者が作ったとは思えない。器用だね」


 お父さんの作ったバッグよりもリアクションが小さい事にムッとしたが、そんな気持ちは胸の中の不安の前では小さな問題だった。


 ハルくんがラッピングを解いてクッキーに触れた。

 わたしの胸のドキドキが大きくなる。期待と同じくらいあった不安が、溢れてくる。

 生焼けだったらどうしよう。ダマがあったらどうしよう。ヒビがはいっていたらどうしよう––––––おいしくなかったら、どうしよう。


 ハルくんはクッキーを一枚つまむと、口元にもって匂いをかぐ。そして、


 ––––サクッ


 わたしの焼いたクッキーを、食べた。


 ハルくんの口が動いている間、わたしは自分が味見したクッキーの味を思い出そうとしていた。でも、どんな味だったかも思い出せなくて、ハルくんがそれを飲み込むまでをじっと見つめるしかできなかった。

 ハルくんの喉が上下する。何かを言いたげに開きかけた口を見たとき、わたしは目をキュッと閉じた。





「––––美味しい......!」


 聞こえてきたのは、まっすぐな感嘆の声だった。


「本当に美味しいよ! ......もう一枚もらってもいいかな?」


 安心よりも喜びが大きかった。わたしは大きく息を吐くと、次の言葉のために大きく息を吸った。


「たくさん焼いてきたから、好きなだけ食べてください!」


 この言葉は、嘘いつわりなく言うことができた。


 ハルくんは一枚一枚大切そうにクッキーを手に取って、食べる。それを見ながら私も一枚を手に取って頬張った。不思議と、ハルくんの美味しいを聞いた後の今の方が、味見をしたときよりもおいしかった。

 アイシングのハートマークが、目に痛いほど主張する。


 わたし、恋してるんだ。


 ぽつんと、声に出してしまったかもわからない。

 だがいざ再確認すると、恥ずかしさのような気持ちが大きくなって、いてもたってもいられなくなる。わたしはバッグを手に取って、ベンチから立ち上がった。これ以上ここにいたら、ダメだ。


「今日は用事があるので帰ります! そのクッキーはハルくんが全部食べてください! また––––」


「えっ! アオイちゃん?」


 呆然としたハルくんを残して、わたしは公園から走り出した。

 また、明日。また、あした。

 ––––せめて、夏休みが終わるまで。


 公園から遠く離れた。ドキドキも、少しだけ落ち着いたような気がする。

 だからなのか、それとも誰も聞いていないからか、わたしは言葉をつぶやいた。


「––––––––––––––––––––––––––––––」


 <>



 公園には、一人の青年が残されていた。

 ジリジリと鳴くセミの音を遠目に、少女が去っていった道を、ぼうっと眺めている。


「......また、ね」


 確かめるように呟くと、彼はクッキーの入った袋を大切そうに結び直した。


「......まったく。何を期待してるんだ。僕は」


 彼の頭の中には、彼女がウインクをして笑った顔が、アルバムの一ページのように残っていた。いつも褒めると、彼女は嬉しそうに笑う。その笑顔は好きだったし、見慣れていた、とも思う。

 それなのに、今日のあの表情はいつもと違って見えて、目を合わせ続けることができなかった。


「あーーだめだだめだ。僕はアオイちゃんの告白を手助けする先生なんだから。そんなこと考えちゃだめだ!」


 髪が崩れることもお構いなしに、頭をかく。

 恋愛マイスターなんて出まかせだ。ただ、泣いている女の子の力になろうと思って、励ますついでに口にしただけだった。それなのに日を重ねるにつれて、恋愛マイスターという仮面が大きくなってゆくのはなぜだろう。


「最初は本当に、ただの善意だったのにな............」


 善意で張り切っていただけだったのに、いつの間にか好きになっていた。

 人は、触れ合う回数が多いものほど親しみを覚えるらしい。でも、そんなものはただの外堀でしかない。嫌いなものはどれだけテクニックを尽くしてもより目障りになるだけで、無関心なものはただ慣れるだけだ。

 ただ、一生懸命な彼女を応援しているうちに、その姿に惚れてしまったのだ。


「なにがキューピットになってみせるだ。とんだ恋のステューピッドだよ」


 彼は、そんな結論にたどり着くと、甘いため息を吐いた。

 まだ、あのクッキーの味が口に残っている。この先も忘れられないだろう、その味が。


「告白、うまく行くといいね」


 楽しかった夏休みもあと少し。幸せになってほしいという気持ちは、ずっと変わらない。



「「––––この気持ちは、誰にも言えない」」


 二つの声が重なったことを、二人はまだ知らない。

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