第4話 迷宮(4)

 老人は痩せ細っていた。

 記憶にある体格よりもかなり細いが、背筋の伸びた立ち姿は確かに師父のように思える。


 着物の裾から覗く枯れ木のような足には、藁で編まれた草履ぞうりを履いていて、白く長い髪の毛は三つ編みで束ね、後ろにまとめていた。


 本当に久しぶりに見る日焼けした皺だらけの顔はただ懐かしく、すぐにでも近寄っていきたい気持ちがあったが、武は抑えた。


 本当に師父なのか? 英了の操る式神ではないのか?

 武の中で、久しぶりの出会いを喜ぶ気持ちと疑いの心が葛藤していた。

 

 武が老人を見つめていると、

ジェン。元気そうだな? あれから修行はさぼっておらぬか?」

 老人がそう言いながら、無駄のない足運びで近づいてきた。

 大陸の言葉だ。武の傍らにいるワカミケヌには、何のことやら分かっていない。


「本当に、リン……虎隆フウルン師父なのですか?」

「そうでなければ、ここにいる儂は何だというのだ?」

 老人は立ち止まると大きな口を開け、かっ、かっ、かっと笑った。

 一陣の風が吹き、足下の草がざ、ざあっと音を立てた。


「ずいぶんお痩せになったんですね?」

「ああ。お主がいなくなった後、大病を患ってな、大変じゃったわ」

「そうだったのですか」

 武はそう応え、再び老人の顔を見つめた。


 見れば見るほど、話をすればするほどに、本人だと思わざるを得なかった。記憶と異なるのはその体格だけなのだ。

 ――目の前の老人が林師父本人であるとして、問題は、なぜここに林師父がいるか、だ。武はそう考えながら、師父と初めて会った日のことを思い出していた。


 師父に拾われたあの日――

 武は死にそうになりながら、山の中を一人彷徨っていた。一週間以上何も食わずに倒れかけていたところ、偶々たまたま、山に狩りに来た師父と出会ったのだ。武は寂れた農村の生まれで、多すぎる兄弟の口減らしで山に捨てられた子どもだったのだ。


 最初に覚えているのは、自分を抱きかかえる師父の手のひらの温度と声だ。

 その時、師父はこう言ったのだ。

「何と……。こんな山の中で武の未来を見せるような子と偶然に出会うとは。これも運命か……」


 師父が自分の何を見てそう思ったのかは今でも分からないが、その時の言葉が自分の新しい名の由来となった。武はこうして武術の達人、リン虎隆フウルンと一緒に暮らすことになったのだ。


 家に帰ったその日は、たらふく飯を食わしてもらった。ついさっきまで死にかけていた自分には、それは夢のようなひとときであった。そして、その日は、暖かい布団の中で眠ったのだった。


 だが、次の日からは厳しい武術の訓練が待っていた。


 基本の足運び、基本の突きや蹴り――

 そして、それらを組み合わせた套路とうろ

 さらには筋骨を鍛え、体内の気を練り上げる練功の数々。

 槍や刀を使った武器術の訓練。


 毎日、日が昇る朝から夕暮れまで、徹底的に鍛えられたのだった。


 苦しかったが、それだけではない。

 家庭の幸せというものを知らなかった武にとって、その訓練の日々はかけがえのない思い出でもあったのだ。


 師父は毎日のように厳しい訓練を武に強いながらも、飯だけは腹一杯食わせてくれた。それは贅沢なものではなかったが、貧しく冷たい家庭で育った武にはそれが夢のようで、どんなに厳しい修行を課されようとも、逃げ出そうとはこれっぽっちも思わなかったのだった。


 普段、師父は金持ちの子弟相手の道場のようなことをしていた。それらの子どもの相手もさせられたが、そのときは手を抜くようにきつく言われた。これが日々の飯の元になっているのだと師父は言って笑ったものだった。


 訓練漬けの日々の中で、武の武術の腕前はみるみるうちに上がっていった。

 成長し、少年期が過ぎていくと戦場にも連れて行かれた。そこで、死線をくぐる体験を経てさらにその武術の練度は益々上がっていった。

 そうして、やがて、大人になると、林の持つつてをたどって、小国の王の下へ武術家として仕えることになったのだった。


「さっきも言うたように、大病を患ってな……このままお主とも会えぬまま死んでしまうのかと思っておったところに、英了えいりょうと名乗る男がやってきたのだ」

「英了が? 奴が師父のところに直接来たのですか?」

「おうよ。わしは死にかけておったが、そいつがくれた薬で病も癒えてな。その上で、その英了がお主に会えると言うのでな。はるばる海の先にあるこの国までやってきたというわけさ……」


「わざわざ、私に会いに来たのですか?」

「ああ。そうだ。そんなつれない顔をするな」

 林はそう言ってにやりと笑った。皺だらけの顔の中に細い目が埋まるかのような表情だった。


「死ぬまでに、お主に会いたくてたまらなかったんじゃよ。こっちに来て、しばらくは奴ら、黒牙衆の武術の訓練もさせられたが、それはおまけというか、ここまで連れてきてもらった礼のようなものだな」


「そうですか。私も師父に久々にあえてうれしく思います。ですが、今はオモヒカネという男を追いかけている最中なのです。私にとって、今はこれが最優先の事項。この用が済み次第、お迎えに参りますので、しばらくお待ちいただきたい」

 武は右手の拳を左の手のひらで包みながら、礼をして言った。

 その途端、目の前の林の姿がゆらりと揺らいだ。


 いつの間にか、拳がまっすぐ武の顔面に伸びていた。

 全く初動も、気配も感じさせない突きを、寸前で体の前に合わせていた両手で跳ね上げる。突然の攻撃を避けることができたのは奇跡のようなものだった。

「やはり、錆び付いてはおらぬな。……わしの技を継ぐただ一人の男。ウージェン。お主と最後の手合わせをしにわしはやって来たのだよ」


 林はそう言うと、背中に手を回し長い二本の棒を取り出した。

 両手に持った棒をつなげると、左右にねじる。カチリと音がして、更に長い棒になったそれをビュンと降ると、先から槍の刃が出てきた。


「手合わせ? それは練習と言うことですか?」

「お前は阿呆か。真剣勝負のことに決まっておるだろう」

 林はそう言いながら槍を構えた。


 全く隙のない構え、そして溢れ出る闘気を見て武は思った。

 これがもしも式神であったなら、英了の術は神の領域だと言えるだろう。

 あの男め、本当に林本人を連れてきて、私と勝負をさせようとするなんてな――


 武は大きく息を吐き調息をすると、にやりと笑った。

 体内に神気を満たし、指先の一本、一本にまで巡らせる。

「仕方がありませぬな」

 武はそう言って背中にしまっていた刀を取り出し、ビュンと降り、腰を落とした。

 二人の間に、燃えたぎるような闘気がぶつかり合り、激しく景色が歪んだ。

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