第5話 新しい生活(3)

 英語の授業が終わり、遥は大きく息を吐いた。授業の内容に何とかついていけそうで、ほっと一息ついたのだった。

 日直が号令をかけ、礼をして着席すると、一挙に生徒の笑い声や会話が広がっていく。

 緊張が解けると、遥は突然トイレに行きたくなり、席を立った。廊下に出てトイレを探す。

 すると、

「ちょっと、いいかな」

 と声をかけられた。


 振り返ると、そこにいたのは、英語教師のリチャードだった。

「キハチとはなんだ?」

「え?」

 突然、問いかけられたその内容に、遥は驚いて言葉が続かなかった。

「君の中にいるキハチとはなんだと訊いている」

 リチャードはそう言って、遥の目を見つめた。

「何で、先生がそんなことを知ってるんですか?」

「ふむ。やはり私このことは聞いていないのか……詳しくは言えないが、私も君の事情を知っている人間の一人と言うことだ」

 リチャードはそう言って笑った。


 最初に受けた印象どおり、やはり俺のことを知っている――。

「先生はいったい?」

 遥が訊ねると、

「突然、驚かしてすまなかったが……、今は、これだけ伝えておく。丈太郎たちと同じく私も味方だ。学校で何かあったら、私に助けを求めなさい」

 リチャードはそう言った。そして、遥が返事をするのを待たず、踵を返して職員室へと歩いていく。

 歩き去っていく大きな背中を見送りながら、遥は、自分の置かれた立場を改めて自覚していた。リチャードの言葉から推測するに、恐らく彼は神山たちの関係者なのだろう。

 遥は大きくかぶりを振った。


 ――と、突然、

「遥! どうしたと!?」

 後ろから、浩に勢いよく背中を叩かれた。

 遥はせき込み、その様子を見た浩が笑った。

「なん、そんな深刻な顔をしちょっとや?」

「ははは。いや……急におしっこに行きたくなってさ」

 遥も笑いをこらえながら答えた。

「おう。それじゃ、一緒に連れションと行こうぜ」

 浩が胸を張って言う。

 屈託のない浩の顔を見ていると、あんなに気になっていた自分自身の正体なんか、どうでもいいような気がしてくる。

 遥は浩の肩を叩き、二人で笑いながらトイレに向かった。


      *


 帰宅する生徒たちでごった返す玄関を、遥は浩と佳奈と一緒に抜け出た。

「緊張した?」

「まあ、ちょっとね」

「勉強はついていけそうか?」

「浩君が言う?」

 佳奈が笑った。

 三人は、他愛もない話をしながら、校庭を歩いた。途中、近道をして運動場をかすめるように通りかかると、隣接する武道場から、気合の声や板間に踏み込む足音が聞こえてきた。


「あれは、何をやってる音なんだ?」

 遥が訊くと、

「あれか。あれは、剣道だ。うちの高校、昔から強くて全国レベルなんだ。有望な選手が入部を希望して引っ越してくるくらい強いとぞ」

 と、浩が答えた。

「へえ……」

 遥が武道場の方を見ると、入り口から竹刀を振る生徒の姿が、ちらちらと見えた。


「興味があると?」

「うん、ちょっとだけ」

「じゃあ、ちょっと来い」

 浩が遥を武道場まで引っ張っていくと、武道場の下にしゃがんだ。換気用の細長い窓から練習の様子が見える。

 防具で顔は見えないが、一際大きな選手の動きが目立った。

 凄まじい速さとパワーで上段から打ち込む、竹刀は早すぎて目に見えない程だった。


「凄い迫力だな」

「じゃろ」

 遥の感想を聞いた浩が笑って言った。

 すると、

「あの大きな人、凄いね」

 と、女性の声が突然聞こえた。

「えっ!?」

 遥は、二人の間にしゃがむフェザーに気づいて、口をぽかんと開いていた。

 浩も一緒で驚愕の表情を浮かべている。


 黒く長い髪を揺らし、

「えへっ」

 と、笑うフェザーに、

「あんた、誰?」

 と、浩が訊いた。

「遥君と佳奈ちゃんの知り合い。フェザー・グリーンウッドよ。よろしくね」

「えっと、ぼ、僕、山下浩です」

 急にかしこまって、浩が頭を下げる。


「お、おい。遥。こん人と、どんげな知り合いやっと?」

 遥を肘でつつきながら、小声で浩が訊いた。

「ん。何と言うか……、昔、お世話になった知り合いなんだ。たまたま高千穂に来たみたいで……。しばらくいるんですよね?」

 遥は少し詰まりながら答えた。

「そうね」

 返事をするフェザーを、合点がいかないような顔で浩が見る。

「学校で変わったことはない?」

 そんな浩の様子には構わず、フェザーが遥に訊いた。


 遥は、リチャードという英語の教師が、遥たちの転校と時を同じくして着任したことを伝えた。ただ、浩がいる手前、キハチのことを言われたことは口に出さなかった。

 フェザーはその話を表情を崩さずに聞いていた。

「ふーん、まあ、今のところは順調ってことかな。変わったことがあったらすぐに言ってね。じゃ、浩君もまた会いましょう!」

 フェザーは笑顔でそういうと、手をひらひらと振り、風のように走り去った。


 ずっと向こうの校門の方で、ハレーダビッドソンに跨った丈太郎が手を振っているのが見える。フェザーは駆け寄ると、後ろに飛び乗った。すぐに、低いエンジン音が轟き、ハーレーが動き出す。

「なんか、変な感じやなあ。遥、なんかあるんやったら言えよ。相談に乗るかいね」

「ああ、大丈夫だよ」

 心配そうな浩に遥はそう答え、走り去るバイクを見送った。

 リチャードにしてもフェザーや丈太郎にしても、こうやって心配してもらえるのはありがたいのだが、世話をかけていることが気になる。

「しょうがないよ。遥は自分にゆかりのあるものを探さなきゃいけないんだし……」

 遥の気持ちに気づいたのか、佳奈が遥にだけ聞こえるように小さい声で言った。

 遥は黙って頷くと、佳奈の顔を見て微笑んだ。

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