第5章
第1話 引っ越し(1)
自動車の開け放した窓から、風が吹き込んでくる。
山の植物の匂いと排気ガスの匂いが混じった風は、後部座席に座る遥と佳奈の髪を巻き上げ、外へと出て行く。
遥は、窓の外に拡がる山の木々の緑に目を向け、どこか懐かしい気持ちで眺めた。景色も、山の空気も気持ちがいい。
引っ越しトラックの後を追うように、祥子の運転する自動車は高千穂を目指していた。
カーオーディオから流れる外国のロックに合わせ祥子が鼻歌を歌い、飼い犬のゴンが助手席でしっぽを振る。
途中、コンビニで買ったパンやお菓子を齧りながら、他愛もない話をする。自動車の中は和気あいあいとした雰囲気で、話題が途切れても不思議と嫌な感じはしない。窓から聞こえるエンジンとタイヤの音が心地よかった。
山肌に貼り付くように整備された道路を、深い谷に沿うように進む。途中、大きな谷を越える橋をいくつも通り過ぎ、暗く長いトンネルをいくつも通り抜けた。
道は広く、綺麗なアスファルト舗装の上を快適に自動車は進んでいく。祥子によると、昔はもっと狭く険しい道だったのだそうだ。
アスファルトの道路も、コンクリートの巨大な橋も、全てが物珍しかった。遥はそういった巨大な建造物が通り過ぎるたびに興味を持って眺めた。
「遥は、自分が住んでいたところのこと、全く思い出さないの?」
外を眺めていると、佳奈が訊いた。
「ああ。だけど、こんなふうに山に囲まれたところなんじゃないかな」
「なんで?」
「うーん。なんて言うか、懐かしい感じがするんだ。でも……」
「でも?」
「大きな橋やトンネルなんかは初めて見るような気がしてさ」
「ふうん」
インターネットやテレビ、新聞で、常識と言われるものは、頭に入れたつもりだったが、実際に見るとやはり珍しく感じてしまう。特に、コンクリートや鉄でできた巨大な構造物には興味を引きつけられた。
「橋とか好きなの?」
「好きって言うか、こんな大きいの、どうやって造るんだろうと思ってさ」
「そっか。言われてみれば、どうやって造るのか、詳しいことは知らないな」
佳奈はそう言って、笑った。
新富町を出るまでに、祥子や佳奈を先生にして、学校の勉強もやった。
佳奈の従兄弟ということで、同じ学校に通うため、普通のレベルに達している必要があったからなのだが、普通に身の回りにあるはずのもののことは知らないのに、勉強の知識については知っていることが多かった。
佳奈は「教え甲斐がないなあ」とぼやいていたが、遥は正直ほっとしていた。
この世界にはありえないような小さな飛行機のようなものに、自分が乗っていたことは青山から聞いている。ただでさえ、自分が何者なのか説明がつかない中にあって、自動車や洋服など、普通に身の回りにあるものに対してさえ、初めて見るような感覚を覚えてしまうことに、遥は自分がこの世界の者ではないような疎外感を感じていたのだった。
だが、高校レベルの学問の知識を持っていたことが、遥を元気づけた。おそらく、今の自分の症状は、記憶喪失という病気の症状の一つなのだろう。
そんなことを考えていると、
「丈太郎さんたち、かっこいいね!」
急に佳奈がそう言い、現実に引き戻された。
後ろを見ると、巨大なハーレーダビッドソンに跨る丈太郎とフェザーがいた。二人ともジーンズに薄手のブルゾンを羽織っている。ジェットタイプのヘルメットにサングラスが似合っている。
バイクが曲がるのに合わせ、フェザーの黒髪が翻るのも、何とも絵になった。
「本当に。でも、わざわざ付いてきてもらうのも悪い感じがするね」
遥はそう言って、黒牙一族と名乗る男たちに襲われた事実を改めて自覚していた。丈太郎たちは、護衛のためについてきてくれているのだ。
「でも、それが高千穂に行くことの条件の一つだったからしょうがないよ」
「うん……」
本当に襲われたらどうすればいいのか。佳奈や祥子に被害が及ばないようにしなくてはいけない。
遥が考え込んでいると、
「君たち! いよいよ、よ!」
祥子が運転席から大きな声で言った。
遥が、前に顔を戻すと、それまでより一際、大きく新しいトンネルが現れた。
通り抜けると、大きな橋が現れ、その向こう、左側に、民家が幾つもあるのが見える。
深い谷の上に架かるその大きな橋を越えていくと、すぐに道を左に曲がった。
目に入る民家が増えてきた。背の高い建物はほとんど無く、家の他は、畑、小さな里山といった風景だった。
「日本神話の舞台にもなっている場所で、伝説もたくさん残ってる。神社も多くて、観光客もたくさん来るのよ。ほんと、田舎の風景なんだけど、そこがいいのかもね」
祥子が運転しながら説明する。
「ここが、高千穂……」
遥は呟いた。
街に入ってまもなく、畑の方へと曲がった。家がぽつぽつと建っているのが見えてくる。
「あれか?」
「うん、そうよ」
佳奈が嬉しそうな様子でうなずいた。
家は一軒家で、周りを田んぼが囲み、少し離れて雑木の林がある。
三十メートルほど離れたところに別の家が一軒あったが、
引っ越しトラックが停まり、遥たちの自動車も停まった。すぐ後ろに丈太郎のバイクも停まる。
ドアを開けると、アブラゼミが鳴く声が聞こえてくる。日差しは強かったが、山から爽やかな風が吹いてきて、不思議と暑くなかった。
ガチャリ
と、音を立て、自動車のドアを開いた途端、滑るようにゴンが走り出てきた。跳び跳ねるように走り回り、はしゃぐように「ワン、ワン」と鳴き声を上げた。
灰色の瓦葺きの屋根。
風雨にさらされ、黒くなった木の壁に柱。
大きな縁側と木枠のガラス戸。
新富の家も新しくはなかったが、こちらの方が、だいぶ年季が入っている。
「ここは、三田井っていう地区で、もう少し向こうに行くと家もたくさんあるし、
祥子が笑顔で言った。
「懐かしい。ここで住んでた時はおじいちゃんとおばあちゃんもいたんだけど……」
「そうね。だから、今は空き家なの。隣の家も、今は人は住んでないし」
佳奈の言葉に、祥子が続けた。
会話が途切れた瞬間、
「これから、荷物を家に入れるんですよね? おれ、頑張りますよ!」
遥は、わざとおどけるように言った。
「期待してるわよ!」
祥子が大袈裟に返すと、驚いたゴンが大きな吠え声をあげて走りまわった。
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